2023年6月23日金曜日

年寄りにはパソコンがいい(その2)――アルバム整理と時の変遷

 紙焼き写真を収めたアルバムが傷んできたので、画像の保存とちょっと見たい時の参照手段を変えることにして、まずひとわたり眺めることをしている。

 取り上げたのは昭和561981)年10月撮影のヤマト、いわゆる「山の辺の道」近辺の写真だ。パソコンもインターネットもない頃で、道路地図だけで走り回っていた。撮影地点をインターネットに当たると、新しい風景や建物を中心に情報満載である。

パソコンもこの20年ほどの間に機器もソフトもすっかり新しくなっている。選択編集した画像をA4のクリア・ファイルに入れ、保存データは一旦ファイルに収めてから、まとめてハードディスクや光学ディスクに入れる方針にした。

 この文章はフリーソフトのLibreoffice writerを使っている。Wordとの使い勝手の比較のためだ。

作業は、元の紙焼き写真を複合機でスキャンして、エクセルで準備した方眼台紙に貼り付ける。編集は褪色補正とトリミング程度ならスキャニングと一緒にできる。スキャンが終わったあとデータを保存する場所の決め方には慎重さが要る。パソコンのファイル・ツリーが意図しない間に複雑になっている。ファイルの場所までの道筋ルートを強く意識しておかないと、データ探しに時間がとられる。弱った頭脳は機械の思うままに引きづられる傾向があるから要注意だが、すでに遅しであった。

さて、元のアルバムには撮影日付と場所がメモしてあるが、対象の説明はない。案内図などなしに飛び出してゆくので、道標を見つけて、あ、ここが「山の辺の道」かという調子だから由緒起源など説明は全部後付になる。現在のネットに教わって説明を加えると、写真の内容とは40年あまりの時間差がある。撮影時になかったものが今あるし、あったものがなくなっているということが当然起きる。これはこれで勉強になってよろしい。

三輪山平等寺という寺院がある。なかなか立派なお寺だ。それが当時の撮影では山門だけ写っている。

それも正面ではなく斜め手前からで、やがては朽ちるかとでもいう風情だ。何ゆえこの角度からだったのだろうと不審である。この場所については撮影時の記憶はまったくない。これがほかの、例えば檜原神社から二上山を望むとか、崇神天皇陵とかなら現場での印象を思い出すことができる。

こういうわけで、作り直すアルバムは簡易なものではあるが、体裁としてはそれなりの説明をつけておきたい。そうすれば、誰でもがまた見直して楽しむことができる。ということになって、これはこれでけっこう時間のいる作業になりそうだ。脳によく効く作業のひとつ。

[参考]平等寺については桜井市による紹介:https://byodoji.org/ がよく分かるし、きれいだ。 

山の辺の道は記紀に[山邊道]と表記されている。たとえば、古事記には崇神天皇について「御陵在 山邊道 勾之岡上也」とある。山邊道 と彫った石の道標は小林秀雄氏の筆跡だ。署名も彫られているから本物だろうが、つくられたことの経緯の説明がどこにもない。単に観光機運の盛り上げに協力したということだろうか。評論家も商売ではあるが。

さて、山の辺の道は日本最古の道と言われ、ヤマト政権の官道でもあった。

東の山裾を縫うように南北に通る初めの道は、西側は湖であったことを物語っている。南北に縦貫する上ツ道、中ツ道、下ツ道は水が引くにつれて順につくられたようで7世紀半ばには三道ともに存在したようだ。

左図はウイキペディアに拝借した。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E3%81%AE%E5%8F%A4%E9%81%93 )

 山の辺の道の南端、始点というべきか、は海石榴市である。「つばいち」と読み、物資の集散地の市(いち)であり、八方に道がつながる衢(ちまた)であった。推古天皇の16年(西暦608年ごろ)の条、「唐の客を海石榴市の衢に迎ふ」とあるのは、随の使者裴世清を迎えたことの記録である。難波津で川舟に乗り換えた使者は大和川を遡ってここに到着し、陸路を都へ赴いたという筋書きになる。それにしても、ここまで船で来られたとは、いまでは想像がつかない。現地に立ってみても、記念碑や標識だけでは昔を偲ぶ手がかりがなくて面白みがない。山の辺の道の楽しみは、お宮とお寺と石仏あっての風景だろう。

話を戻して、三輪のあたりを撮った写真には三輪山を写したのが何枚もある。何しろ御神体がお山だという変わった神様に惹かれてあちらこちらから撮してある。面白くはないが、これはひとに見せるためではなく、そのときどきの自分の気持ちを思い返すためだ。

長岳寺というのがある。弘法大師の開基という。石を彫った風情のあるお不動さんや古墳の石棺の蓋に刻まれたという弥勒菩薩がある。

三輪といえば素麺の代名詞みたいなものだが、写真を見ているうちに、長岳寺で「にゅうめん」を食べたのを思い出した。夏は冷たい「そうめん」を食べさせてもらえる、といってもお寺の営業だ。ネットには今どきの人の撮影らしく、頂く前のワンショットがいくつもあった。40年あまり休まず営業しているわけだ。嬉しいね。食べログにもあるのは俗化し過ぎだが。いまお休みしてます、とお寺の注意書きもあった。コロナのせいだろう。

話が前後するが、ネット上にあった山の辺の道を写真と文で案内する記事の中に、湖のきわを歩いた道だから標高5060メートルのあたりだというのがあった。パソコンで標高を知るには、国土地理院のサイトがいちばん的確だと思う。地理院地図で見ると崇神稜あたりで100メートル、柳本駅で70メートルほどと出ている。先の記事が誤りだと指摘するつもりはないけれども、標高とか、海抜とか、あるいは水面の高さ、水深の値などと考えを巡らせていると、錯覚に陥りやすいことを知った。

長 岳寺とその道筋には石仏が多い。寺に所属する作品にはネット上に種々説明がされていてありがたい。けれども路傍に小さな石仏が多いのもこのあたりの特徴だろう。明らかに庶民の作品だろうし、作者や由縁の手がかりもない。いつ頃どんな人たちが…など一切わからないけれども、兎にも角にも何かが伝わってきそうな気配があって気持ちが動かされる。楽しむだけではいけないかも知れないが、また会いに行きた
くなったりして。

のんきな話ばかりではない。大和川の舟運などを調べているうちに生駒山系と葛城山系の間にある渓谷、亀ヶ瀬の存在を知った。恥ずかしながら長らく関西には馴染んでいたはずが、この歳になるまで知らなかった。昔から大量の地滑りがあってそのために河床が盛り上がったり、大岩が流れを妨げていた。ヤマトと河内を結ぶ大動脈と言われるようになるには昔から大土木工事が繰り返されている。昭和以降は国の事業でついに地滑りは止まった(今のところだけかも)。日本遺産に登録されて文化庁のポータルサイトがある。こんなところを随の使者が?という疑問も起きる。研究者・学者さんの議論もネットにある。こんなふうに40年の今昔を行ったり来たりしながら過ごしているが、また楽しからずやである。22インチ画面をつけて、パソコンは良い伴侶であります。(2023/6)