たまには娯楽的な本を読もうかと思っているところに、ふと作家辻原登さんを思い出した。
あの作品は面白かったなぁと思い返すが、なんでも京都の池の底の地底を走り回るという奇天烈な話だった。題名を忘れている。
ネットで探るとすぐ出てきた。『花はさくら木』2006年、大佛次郎賞の受賞が読むきっかけだった。
『許されざる者』2012年も読んだ。関心を持っていた大逆事件が背景にあった。結末に希望を感じさせたのが印象的だった。
どれもが私と相性が良かった。で、今回は『闇の奥』だ。
昨年終活の一環と考えて早手回しに本棚をカラッポにしてしまったので、紙の本はもう買わないようにしている。図書館に行きたいけれど、この夏は格別に暑いし、だいいちこの年寄りはもう足元がおぼつかない。次善の策は電子本になる。
何をするにもからだの老化現象に苛まれて、ことの運びが悪い。こまごました日常の暮らしの合間の読書となるが、記憶力の衰えが二度三度と同じ動作を促す。
新しいことほど覚えが悪いのが老年の特徴だそうだが、読んだ内容を切れ端で覚えているだけで述べられた事態の繋がりが悪い。今読んだことを話してみろと言われても、口が開けないほどもどかしい。これは発すべき言葉を脳が探しあぐねているのだ。
要所要所をメモしておいて、後でそれを見ながら読んだ内容を反芻してみることで一応納得するという始末である。いちいちこんなことをしていては、折角の作品が楽しめないから、フツウの人のように読み進めて楽しんではいるが、終わってから、頭の中がごちゃごちゃになっていることを実感する。
特に今回の読み物は脳の中の整理状態をあらためるのに向いている。
『闇の奥』という表題はジョセフ・コンラッドの小説の日本語版の表題と同じであるが、その原題は「Heart of Darkness」である。この場合の「闇」はアフリカのコンゴの密林の奥で何が行われているのか不明というのが一つの意味であろうが、人物の足跡を尋ねて密林の奥深くに分け入る行動と不安ということでは辻原作品と共通する。
辻原版『闇の奥』は、当初『文學界』で7回に分けて、それぞれ現在の各章の題名で発表されたのを、合わせて単行本化された。そのときに本書の表題がつけられたと推定するが、それほど深い意味はないと思う。
辻原氏は末尾に参照作品を掲げている。その筆頭に挙げられている『東南 亜 細 亜 民族学 先史学 研究』は、1946年の出版である。この著者鹿野忠雄(かの ただお)こそ『闇の奥』で作者が三上隆と名付けて捜索対象にした人物のモデルである。蝶の採集や民族学の研究に打ち込んだ人。
辻原氏は和歌山県日高郡印南町(いなみ ちょう)生まれ、本名は村上博、父上は村上六三(ろくぞう)、日本社会党和歌山県議、1971年没。『闇の奥』には、父の村上三六(さぶろう)の遺品から、三上関連の情報を発見する息子村上が登場する。六三さんと三六さん、氏は茶目っ気の多い人だ。
今この文を書いている筆者も和歌山の人間の末裔であるので、大塔山系やら熊野やら、筆者が少年の頃馴染んだ和歌山市の地名や交通、戦後の産業の衰退ぶり、果てはカレー事件まで登場する本作はそれだけで懐かしく、その分一層楽しませてもらった。
先に書いたように、語られた作品をなぞるのにメモを取ったり苦心しているが、辻原氏は東京大学の講義で要約を作ることを教えているという。そういえば60歳過ぎての大学院でレジュメ作りを課されて筆者は大いに苦手にしたものであったが、いま『闇の奥』で読後の反芻にまごつくのもあながち老化のせいだけではないかもしれない、私には早とちりの癖があるのだと、妙に安心もしている。
辻原教授に従いて『闇の奥』の要約作りをしてみようと思いついた矢先、何気なく読み返し始めた章、「沈黙交易」の書き出しはまさにそれまでの物語の経緯の要約であった。労役の半分が助かった。
作者は三上隆とミカミタカシを区別して書いている。ミカミは幻想かもしれない。ラマ教のマニ車の秘儀によって一瞬にしてチベットから熊野の奥まで運ばれてきたミカミ。これはファンタジーだと作者が書いている。
ミカミはボルネオから長途を旅して中国奥地の麗江を訪ね、実在の探検家ジョセフ・ロックに会っている。ロックに矮人族のことを聞くとキングドン・ウォードの著書を教えてくれた。それが本書末尾の参照文書にある旅行記『 The Riddle of the Tsangpo Gorges』、 日本語 訳『 ツアンポー 峡谷 の 謎』( 金子 民 雄 訳)2000年 である。
はじめの章の喫茶店で、出水が稲葉と津金を小人(コビト)の部落探しに誘い出す。その結末は洞穴の奥で老人が手招きしているところで終わっていた。村上の父のテープの中で、「沈黙交易」の小人部落で出逢ったミカミは「彼ら小人の言葉を守れ、さもないと・・・」と警告する。作者はここに「不足為外人道也」と陶淵明『桃花源記』のくだりを紹介して、その意味は他言無用であると読者に教える。
だが、3人は掟を破った。3人とも死んだ。最後の出水はカレー事件で。小人は普通の人の社会に紛れ込み人知れず害をなす。カレー事件とは…、うまく結びつけたものだ。作者の遊び心と言ってしまっては事件の被害者に申し訳ないが。その上告棄却判決の日、息子はチベット行きを覚悟した。
続きは最終章を読んでのお楽しみだ。
作者辻原登さんは非常に広い範囲に興味をお持ちで、それを自在に作品に活用する。本作も例外ではない。ただ本作は全体の構成に無理が残っている感じがする。はじめはシリーズでの連作を意図されたのかもしれない。のちに発表された作品を一つにまとめることになって、やや齟齬が生じた。整理が十分できなかった。切り落とす部分とその分量を補って書き足す部分が必要だったように思える。娯楽性は十分だ。もともと材料が多すぎたのかもしれない。多分お忙しくなったのだろう。(2023/8)