2017年1月19日木曜日

鷗外の『うた日記』のこと

小島憲之『ことばの重み』(講談社学術文庫、原本1984年)を脇に置いて、岡井隆『森鷗外の「うた日記」』(書肆山田、2012年)を参照している。森林太郎『うた日記』は明治四十年(1907)に春陽堂から刊行された。この書物には日露戦争に出征中の明治三十七・八年に陣中でものした「うた」を編集した詩歌集「うた日記」のほかに「隕石(ほしいし)」(訳詩集)、「夢がたり」、「あふさきるさ」、「無名草(ななしぐさ)の四編が併載されている。
初版を所有されている岡井氏によれば、全ページのうち「うた日記」が7割近くを占めているそうだ。「あふさきるさ」(あれやこれやの意)が戦場からの書信の端々に書き留められた詩歌であることが知られるだけで、他についてはよくわからない。
「うた日記」にいう「うた」には短歌、長歌、反歌、俳句、詩などがある。原作者の鷗外の自筆と認定されている『うた日記』広告文は次のようにうたう。漢字ではなく「うた」としたゆえんだろう。

新体詩家にもあらず、俳人にもあらず、歌人にもあらずといふ氏がものせられし長 詩、十七字詩、三十一字詩の趣をば、これを見て知り給へ。

岡井本は著者が歌人であることや刊行時期が新しいだけあって関連資料が多く採り入れられていて、それはそれで読み応えもあり面白いが、『ことばの重み』とは方向が違い、両書をうまくつなげるまとめはむずかしい。ここでは『ことばの重み』に重点を置くことにする。

『ことばの重み』の著者は国文学者ではあるが上代日本文学が畑である。必要あって近代日本文学での漢語使用について知見を深める途中に鷗外の漢語の使い方に関心を持つに至った。本書は鷗外の漢語という副題を持ってはいるが、鷗外の作品中『うた日記』は他の日記と異なり詩歌集であり、万葉語や上代語が頻りに用いられていること、およびそれらも漢語に関連することなどを明らかにしている。これを反面からいえば、それほど鴎外の語彙知識が膨大であったということでもある。

『ことばの重み』第九「舂(うすつ)く」と題された章は「我馬痛(わがうまや)めり」と題する韻文で始まる。(/は改行を示す)
わが馬やめり/つねはすぐれて/足掻(あが)き疾(と)き馬/けふおくれたり
ひねもすゆきし/道はいく里ぞ/黄なる畑土/かぎりしられず
丈に満たざる/高粱(たかきび)ごしに/つれなる馬の/とほざかる見ゆ
ゆきなやみつつ/わが馬嘶(いば)ゆ/夕日うすつき/わが馬嘶(いば)ゆ

「いばゆ」は馬が声高くいななくことをいう万葉語。行き悩んだ鷗外の馬がどうなったか知る由もないが、読んでみて口調の快さと「あわれ」を感じる。戦場におけるその場その場の覚悟の感情を、激しい戦闘で思考の停滞した頭脳で論理的に綴るより、「うた」に姿を借りるのが適当である、と小島氏は鷗外が日記ではなく「うた日記」とした理由を想像する。小島氏は応召されて輸送船が撃沈され、バシー海峡で八時間漂流して生還した経験の持ち主である。
しかし、鷗外は第二軍の軍医部長という職責で直接の医療には当たらない。戦闘部隊とは別行動の後方部隊にいる。当時は敵味方とも戦うのは戦闘部隊同士で、後方部隊が敵に襲われるという事態は起こらない建前だった。したがって鷗外は比較的ゆったりと詩作もできたのではないか。
「日記」と名付けてはいるが、毎日の日付を追うわけでもなく、生じた出来事を逐一記録するのでもない。日付と場所は書いてある。何かの事象をきっかけに催した感懐を「うた」にしているのだ。しかも形は短歌あり俳句ありとさまざまを意図的に並べてある。これは遊びであると思う。自らをうたった歌がある。

明治三十七年四月二十一日於宇品
大君の任(まけ)のまにまにくすりばこもたぬ薬師(くすし)となりてわれ行く
「うた日記」の魅力のひとつは随所に万葉語が自在に駆使されていることである。持ち前の詩才によることもちろんであるが、歌人佐々木信綱との長年にわたる交渉によっても磨かれた。
出陣にあたって信綱から贈られた『日本歌学全集』のうちの『万葉集』三冊本を携帯している。当時としては革命的な便利なテキストであったという。小島氏は陣中にこの三冊本があることを末弟森潤三郎著『鷗外森林太郎』の口絵写真で発見している。
ここで余談になるが、この『万葉集』の便利さを説明するため小島氏は、浦島子伝説を詠んだ長歌のその反歌を例に出している。
この本が便利だというのは本文に片仮名の傍訓があり、訓と共に『万葉集』の原文にも親しむことができる。さらに簡単な頭注がついていることである。
常世辺(トコヨベニ)可住物乎(スムベキモノヲ)剣刀(ツルギタチ)己之(シガ)心柄(ココロカラ)於曽也(オソヤ)是君(コノキミ
[頭注] 己之をシガと云る也。於曽也は鈍き意にて、此君は浦島子をさせるなり。
)

ともかく鴎外は『万葉集』をよく学び、その長歌および反歌の使い方に熟練していた。また漢語もそうであるが、万葉語についても克明に抜粋する作業をよくしていたという。
昭和九年三月、雑誌「文芸」に「陣中の竪琴」を発表した佐藤春夫が「うた日記」を愛読したことを広く伝え、なかでも「このかなり複雑な事件を簡潔に規則正しい形で構成したその清新な手法は集中でも亦出色である」として激賞した長歌がある。
それはロシア兵に犯され、毒性のけしの花を食べて自殺した満州乙女の悲しい死を詠んだ歌である。小島本は部分で出しているが、岡井本によって省略せずに引く。
     「罌粟、人糞(けし、ひとくそ)」(明治三十七年)
      わが住む室せばく/顔ばな照れるかくさん/すべなくうたて見られぬ
                 紐は黄、袴朱(はかまあけ)/仇見るてだてに慣れて/をみなごたやすく見出でつ
                ますらを涙なく/辞(いな)めどきかんとはせで/あす来(く)と契りてゆきぬ
               耻(はぢ)見て生きんより/散際いさぎよかれと/花罌粟さはに食べつ
              たらちねかくと知り/吐かすとのませたまひし/人屎(ひとくそ)験(しるし)なかりき
              おもなく羞ぢ伏すを/舌人(をさひと)聞きて告げれば/吐くべき薬とらせつ
              間近きたたかひの/場(には)行く死(しに)の使の/打見て過ぎし花罌粟

長い詩である。内容は、死のうとして毒性の花を食べた少女に、吐き出させようとして母親が人糞をのませるが死ねなかった。通訳が聞き知って告げたので医師が解毒剤を飲ませた。間もなく始まる戦の場におもむく軍隊が見ながら通り過ぎてゆく。
小島氏の解説は;
近く戦いの庭に行くべき「死の大王(しにのおほきみ)」の使者が――鷗外を含める――見ながら「通り過ぎ」た花げし。この万葉語の「過ぎし」のことばの中には、「散り過ぎ」てしまったけしの花、その自決して逝った乙女の二重写しがある。死ぬべき覚悟で戦場に臨もうとする詩人鷗外と散ってしまった花げしの彼女、鷗外の感情は静かにたかぶりつつここに結びとなる。
この長歌の次に並べられた歌二首はその反歌とみることができる。
磚瓦(かはら)もて 小窓ふたげる こやの雨に 女子(をみなご)訴へ うさぎうま鳴く
毒ながら 飲みし花罌粟 ふさはしき 子よといはんも いとほしかりき

この二首について著者は、長歌の補完であるが「言はでも」の部分で、感情の流れもあらわでかえって弱く、もとの長歌にはとても及ばない、とする。
小島氏の解釈では、この歌の乙女は死んだのであるが、奇妙なことに、岡井隆氏によれば。少女は嘔吐剤を飲まされて生き返ったことになっている。
また、「過ぎし花げし」は戦闘の外に投げ捨てられた花として自分を歌っているのだという。反歌のできも、うさぎうま(ロバのこと)鳴くという結句を褒めている。
少女の生死について小島氏とは反対の意見である。どういうことだろうか。「うた」というものは、まことに曖昧であるが、ここは鷗外氏の詩囊の豊かさを味わうべし、とでも言って次に進みたいがどうにもひっかかる。
元来、和歌の意味のとり方は読む者に任されるものだそうであるが、生きるか死ぬかまで判断がつかないほどとは困ることもある。詠み上げた者の意図はどうだったかということで、筆者は、はからずも昭和十六年九月の御前会議で昭和天皇が読み上げられた明治天皇御製
「よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ」
を思い出した。
開戦か平和か、国家の大方針を決めようというときに、決定権をもっているはずのお方が、意見の発言に代えてこの歌を持ち出された。事態は開戦に向かって動いたのは周知のとおりであるけれども、歌の意図はどちらだったのか。一億の民の命が一片の歌に懸けられたとなれば、単に悲壮美だなどとはいえない。
国語学の大野晋氏に、日本語の漢字を重要視しない行き方によって漢語の論理性が失われてしまったという意味のことばがある。情意表現を得手とする和語が増えるだけでは困るのである。
話を戻そう。「罌粟、人糞(けし、ひとくそ)」の長歌とその反歌という手法は万葉集に見られる高橋虫麻呂の浦嶋子伝説その他伝説の手法に拠っていると小島氏はいう。ほかにも「さくら」の長歌とその反歌が良い例としてあげられている。
「己(し)が家の庭広ければ春深み 摘むべき花は小垣内(をがきつ)に ここだあらんを」とはじまる(以下略)。
これは桜の花で代表される日本とこれを占領しようとするロシアとの関係を述べる比喩的な長歌とその反歌で構成される。桜の花を手折ろうとするロシアを皮肉った手法は、浦嶋子の歌の手法を思わせる。その反歌は次のようになっている。
「ひとり匂ふ 梢に蝶の 垣こえて 迷い来ぬるよ しがこころから」

筆者の個人的な関心のことになるが、この反歌の「しがこころから」は浦島の歌にもある。最近これを「ながこころから」と読むようになっていると他の書物で知った。「己之」と表記される部分であるが、「己之家」という句もいくつか見られることでもあるが、そちらはどうなっているのか、「ながいえ」となるのか、知りたく思う。浦島も桜も「お前の」よりは「自分の」となるほうがいいように考える。
著者小島氏はこの本のなかで、鷗外研究者が万葉集に通じていないことを嘆いているが、今の時代も同じであろうか。鷗外がせっかく万葉集を活かして「うた」を詠んでも刊行された書物の注には「未詳」と片付けられる例のあることをあげている。
『うた日記』におさめられた訳詩集「隕石(ほしいし)」にある「喇叭」という詩に用いられた「柜楉(くべ)の馬」の「柜楉」について角川版頭注に「未詳」とあるが、鷗外の詩才を持ち上げるまでもなく『歌学全書』の頭注に「馬塞」とあるではないか。鷗外はこの注を利用しただけだよとわらっている。
鷗外の歌嚢(うたぶくろ)の中には万葉語だけでなく上代語も存在するとして、例に、薬師寺の仏足石歌にみえる「死の大君(しにのおほきみ)」(上代語)と万葉語の「黄泉(したへ)の使」をあわせて「死の使(しにのつかひ)」として「罌粟」の長歌に使っていると解説する。
また、鷗外脳中の「詩経」のことばとして「病む馬」の例を紹介し、戦場で病む馬を見て「詩経」を思い出したのだと解釈している。やはり鷗外は漢語の人であったかと思うが、その鷗外の古言(こげん)にかかる哲学をエッセイ『空車(むなぐるま)』に見出す。
古言は宝である。しかし什襲(じっしふ)してこれを蔵して置くのは、宝の持ちぐされである。縦(たと)ひ尊重して用ゐずに置くにしても、用ゐざれば死物(しぶつ)である。わたくしは宝を掘り出して活かしてこれを用ゐる。わたくしは古言に新たなる性命(せいめい)を与へる。古言の帯びてゐる固有の色は、これがために滅びよう……。
「什襲」は十重にかさね包むこと、大切に保存すること。早いころより鷗外は「古言は宝である」との主張を持ち続けていて、『うた日記』のなかに、万葉語、上代語などの和語のほかに漢語をも使用した。古言の帯びる原色を捨てて、新しい生命を与えようとした彼は、和語といわず漢語を問わず、貪欲にそれらを採用しようとする。
「我馬やめり」にでる「足掻(あが)く」や「嘶(いば)ゆ」は万葉語であるが「うすつく」は万葉語にも上代語にも存在しない。漢語に源をもつ「古言」であった。明治時代には「舂く」の文字を用いてよく使われはしたが、どうして夕日の没することになるのか、鷗外が使った依り処はどこにあったかなどはかなり探索しないと不明であった。また必ずしもだれにでも読める語でもなかった。
挿話がある。海軍軍令部次長の伊集院五郎は明治三十八年五月末、明治天皇に日本海海戦の戦況を奏上する役にあった。東郷司令長官の「戦闘詳報」を読み上げるうちに「此時夕陽已ニ」という文のところで一瞬絶句した。その次に続く異様な文字「舂キ」が出現したからであったという。話の結末は知らないと著者はそっけない。ただ、「戦闘詳報」を書いたのは秋山真之だったことがわかっている(括弧して『提督秋山真之』とあるが1934年の古書らしい)。小島氏は比較文学の島田謹二氏の直話で示唆されたそうである。
明治びとがこの語を何で知ったか、小島氏の探索結果は『三体詩』(『三体唐詩』)のなかに晩唐詩人薛能(せつのう)の詩があって、冒頭の句に「夕陽舂(せきゆうしょう)」がある。これを注釈書『素隠(そいん)抄』には「夕日ノ落(おち)ント欲(す)ルトキニ、光ノ揺盪(えうたう)シテ、上下スルヤウナヲ、杵臼デ物ヲ舂ツクニ比スルゾ(巻四)」
とあることから、「うすつく」の訓を与えたことがわかる、と解説している。『三体詩』が中世、近世、明治と読まれることでこの語が詩や小説に入った様子が見える。鴎外が長詩「我馬痛めり」の中に、「夕日うすつき わが馬嘶ゆ」と結んだのは、この「舂く」を歌の世界に導入した例として新鮮である、と称賛している。
こうして小島氏の探索は和語とみられる語にも漢語の源があることを突き止める。膨大な時間を費やされたであろう労作は簡単にかいつまんで読んだだけでも随分と勉強になり、また新しい刺激を受けた。この小さな文庫本になんとたくさんの知識が詰まっていることか。
岡井隆氏のほうも社会的な関心が広く、それなりの参考資料が使われているので何度も読み返したいと思うほど筆者には魅力がある。
それはそれとして、この度『うた日記』を読みながら思ったことは、鷗外は医者としての仕事はどうだったのか、ということだ。文学の才能ばかり著作で知らされても医学ではどうなっていたのか。世に有名な脚気療法について少し考えてみたい。高い地位にあったせいで自らの過ちを正せなかった面があるのではないかと思っている。(2017/1)