2017年1月12日木曜日

「閑愁」と「暗愁」ーーことばの歴史

このブログには長閑悠閑という題をつけた。これで検索するように案内すると、これらの文字を入力する際の漢字変換が厄介らしいことがわかった。こちらはそんなご迷惑などは考えずに、ただ思いつきでつけた題である。書き手がいかにもヒマな人間であることが伝わればいいとの思いからの発案だった。その「閑」の字が俎上にのったので閑文字を連ねることにする。

日本文学に使われている漢語が由緒正しく使われているか、それは漢語ではなくて日本製の和語ではないか、などとそのようなことを厳しく検証することを楽しみにして、それを学問の基礎とされている学者さんがいた。前々回披露した小島憲之氏だ。その著書『日本文学における漢語表現』(岩波書店1988年)というやや本格的な書物をのぞいてみた。

漱石の漢詩にみえる「閑愁」という語が問題になっている。『大漢和辞典』の注にある「そぞろにわきおこるうれひ」では、どうしてそうなるのかわからないとこの著者はいう。『佩文韻府(はいぶんいんぷ)』にある「閑愁」の用例を挙げたうえで「これらを例にして考えると、閑居閑暇などの際に起こる物思いが『閑愁』である。『閑』は、暇であり、のどやかで静かな状態をいうが、そうした際に起こる心の憂愁(<ものおもい>と振り仮名)が『閑愁』といえよう」と納得の様子をみせる。

著者によると、漱石は二百二十首あまりの漢詩の中に、閑愁など「閑」に関する漢語を多く使用する。「閑何」のように「閑」を頭にかぶせた聯語や「閑を遣る」「閑に乗ず」「閑を得」などの名詞としての「閑」などがあり、これら「閑」は「閑静」「閑寂」「餘閑」などの意とあるが、筆者の知識ではよくわからない。とにかく漱石さんは「閑」を好んだという話である。

話題がこの「閑愁」のくだりに繋がった背景には、漱石の漢詩をすべてにわたって英訳しようと来日中のオーストラリアの大学の先生の訪問を受けたという事情があった。小説にはあまり通じていないが、漢詩ならばなんとかなるかと、著者は受けてたったまではいいが、たとえば漱石の詩にみえる「暗愁」という漢語、『佩文韻府』にも『大漢和辞典』にも例が見えない。これをどう処理するか、それにはまず「暗何」の語例を摘出して、英訳に先立って基礎語の「暗」から攻めるべしと話したらしい。その思い出のついでに「閑愁」がでてきたという形で、読者を韜晦しながら著者としての考えにしたがってあえて横道にそれたようだ。
筆者にとっては「閑」の地固めをしていただいたお陰でブログの題名に余分な意味が付け加えられて解釈されるおそれがなくなったことで満足である。

「暗愁」については、著者は次のように結論している。
「暗」には、何という理由もなく、言い知れぬ不安な意をもつとすれば、このたぐいの「暗」を含む憂いが暗愁の意に近い。古典語でいえば「そこはかとなき憂(うれへ)」とでもいってよい。
前々回紹介した『ことばの重み』(講談社学術文庫2011年、原本1984年新潮社)の、第十 「暗愁」という章に展開されている話題が印象深かったので例によって書き留めておく。
まず著者は鷗外の詩にこの語を見つけて出典を調べはじめて、前述のように『佩文韻府』にも『大
漢和辞典』にも見つからないが、晩唐の書物に一つ見つけ、さらに清朝の詩にもあることを発見して、それが幕末から明治の日本人によく読まれていたことを知る。
では鷗外がどのようにしてその語を知ったのか経路探しに移るところで話は一転、大正天皇のことになる。

大正天皇といえばその短い晩年ちかく脳を患われ、そのご病気についての巷のあらぬ噂は筆者も子供の頃よく耳にしていたものである。しかし、この著者が教えてくれたのは御製集、それも漢詩集の存在だった。『大正天皇御製詩集』には精選された二百五十一首が載せられているが、もとの詩数は一千三百数十首、うち七言絶句は千首を越えるという。歴代天皇御製漢詩のうち、九世紀平安前期の嵯峨天皇のが一番多くて約百首だというから、すごい数である。
この『御製詩集』を謹解した御用掛木下彪(ことら)は大胆にもいう、「大正天皇は影の薄い天子様である」と。これには、父君明治帝の威光の前に影が薄いという意が含まれていよう。在位期間、国是業績など、いずれをとってみても比較になるまい。しかし人にはそれぞれの持ち前はあるもの。「歌よりは詩の方がよい」と洩らされたことばからみて、かりに大正天皇自身にとっての境遇がうらはらに回転したとするならば、すでに風流人のすさびになっていた漢詩を作ること、大正期の詩人の中に指を折ることもできようか。
そして著者が目に止めた一首を紹介する。東宮時代の終りに近い明治四十二年作の七言絶句。

「人の暮春の作に擬す」
百花歴乱東風を趁(お)ふ 
寂寞たる園林夕日空し
首(かうべ)を回せば天涯人已(すで)に遠し
暗愁寄せて在り暮雲の中
結びの句に「暗愁」がある。
「暮春」という季節と一日のある時間との中に、ひとり「暗愁」をいだく作者の心情がよく表現されている。「謹解」には、「平穏な御作である」と評するが、やはりわたしは、「暗愁」の語の中に、人に知られぬ作者の憂愁の色濃さを感じる。わたしは、『佩文韻府』にも載せず、詩語としてはやや偏りのありそうなこの「暗愁」の語を、大正帝が、何に、また誰によって学ばれたかに深い関心をもつ
と著者は述べる。
誰によって学ばれたか、などと問いを発しながら著者は伊藤博文と大正天皇の間柄について書く。
この場合伊藤博文は政治家ではなく漢詩に巧みな、滄浪閣主人春畝である。細部は省くが漢詩人伊藤と大正天皇との作詩上の交流は、第三者の想像を超えるほどに濃く深いものがあったという。その伊藤は、国務多端ながら、国内はもちろん旧朝鮮、満州、さらには遠くヨーロッパへ旅行して、旅するごとに詩嚢をひろく豊かなものにした。その彼の漢詩のなかに、「暗愁」が一つ遺されている。しかもそれが絶筆となった。明治四十二年(1909)の作である。
「十月二十五日奉天を発して哈爾賓に赴く汽車中の作」。
万里の平原南満州     風光闊遠なり一天の秋
当年の戦迹余憤を留め  更に行人をして暗愁を牽かしむ
つい最近の六月に朝鮮併合の非を翻して朝鮮総督を辞任した伊藤の最後の旅、数々の戦迹への思いは消えず、旅人春畝の憂愁はそこはかとなく続く。
「更に行人をして暗愁を牽かしむ」の結びには、政治家としての博文ではなく、詩人春畝のいだく「あわれ」が漂うと著者はおもいやる。
こうして漢詩語「暗愁」をめぐる大正天皇と伊藤春畝を結ぶ線が浮かび上がった。

さて、その春畝の漢詩の師は森槐南といって職業詩人であり官僚でもあった。中江兆民が随筆『一年有半』に「槐南先生の詩学」と題してその作を称揚していると小島氏は書く。
その槐南が春畝の最後の旅行に秘書官として同道し、ハルビン駅頭で安重根の銃弾も受けているのだ。途中の車中では春畝と詩談を楽しんでいたであろうことは容易に想像できる。はたしてその証左ともいえる詩稿が自書されて友人井上馨の許に贈られていた。

絶筆となった漢詩の結びの句、「更令行人牽暗愁」が「呼起行人牽暗愁」となっているのだそうだ。著者のみるところではこれが絶筆の第一案だったことは明らかで第二案より劣るという。つまり槐南の添削が加えられているだろうとみる。

続いて著者の捜索の結果は『槐南集』を読むにつれていくつか「暗愁」の語を見出したのであった。こうして「暗愁」の語に限っては槐南・春畝・大正天皇を結ぶ線上に眺めることができる。
門人春畝を悼む森槐南の挽歌も紹介されているが省略する。うえの第一案にしろ、筆者には読めないのが悔しい。

著者の探索はさらに執拗である。されば、槐南は「暗愁」の語をどこで学んだのかということである。彼は明治の填詞(てんし)家であったと書いてある。填詞とは唐の中ごろ起こった新体の曲で、楽府(がふ)の曲によって字を填めることからその名がある。詩の一体であり、「詩余(しよ)」ともいう、と説明されてもわからない。要は先にできている曲に詩をつけるのであろう。

それやこれや唐の時代の人のことがあって、森槐南は「暗愁」の語が載る唐のその手の有名な詩集の名をもじった詩集を編んでいるところから、ルーツはここにありと断言するに至る。
『ことばの重み』の「解説」、内田憲徳氏によれば、小島氏が到達したその唐の「暗愁」は電子検索「全唐詩」中に検索される唯一の例だそうだが、小島氏は何年かかったことだろうか。

さらにさらに小島氏の勉強はつづく。この「暗愁」の語が槐南たち填詞家の独占物ではなく、幕末から明治にかけてたくさん使われたことが発見される。森槐南の父で漢詩家森春濤の明治十四年の作品にもある。結局、填詞家などはほんの一部であり、明治の漢詩愛好者を通じて流行語のように広まっていたことが知れる。だから森鷗外もこの語を使ったし、漱石も使った。

余談だが、今は死語になっていると五木寛之氏が書いているらしい。昭和二十年七月に荷風が使って以来だと。

著者は、ながらく上代日本語にかかわり過ぎていたために、明治の漢語に疎い結果を招来したとどこやらに述懐しているが、それはそれとして、筆者が、かじりかけたこの著書から得たことは、ことば(語)には歴史があるということである。著者はしきりに語性とか語の「あや」をいう。この場合「あや」を辞書で引いても著者の言いたい内容は伝わらない。「あや」は文様とか彩とかの文字で表されることがよくあるように、細かい微妙なものの集合したものをいう。「もの」なんてあいまいな言い方をするなと咎められてもほかに言いようはない。その微妙なもののそれぞれにことばを発した人の思いの要素が込められている。要素の組み合わせいかんで「あや」は変化する。それゆえに、著者は非常にもどかしい思いで「あや」といっているに違いない。

漢語が日本語のなかに入り、訓読みから字音読みが優勢になり、はてはカタカナ語に置き換わってきているのは、外国映画の邦題に典型がみられる。いまどきは翻訳すらしないでナマである。
新聞の投稿にカタカナ語の是非論が載っていた。もともとの意味を知って使えという意見があった。小島氏の仕事につながっている話である。知ったかぶりで使うなというのが小島氏の学問の裏にある。とはいうものの、大きな辞典を探り、古今の用例を探しというのでは夜道にもう一度日が暮れそうな気分がする。
「夕日うすつく暮年のわが身」とは著者の愛用することば遣いだが、「うすつく」は「舂く」と書く。春ではない。「春」の日の部分が臼である。夕日が沈むとき光の具合で揺れ動くさまを臼で搗くありさまにたとえた古語、「舂」は漢語で、「うすつく」の和語を生んだ。鷗外は『うた日記』に使っているという。この話は次回にしよう。(2017/1)