2020年3月10日火曜日

漢字の用法「両」 浄心是一両

虫が地上を這っているのは命を実現しているのだ。何の意義もない営みでもそれは生命活動である。
渡辺京二さんが『図書』2月号の巻頭に書いている。何か調べようと思いながら、うっちゃっているのは、疑問を抱えたまま死ぬ怖れがあると気づいた。いま89歳、明日頓死しても不思議はない。だから疑問はすぐ調べておくべしと思い直した。知的探求とかいっても、死を迎えようとしている人間にとっては何の意義もない詮索に過ぎない。しかし、それでも、それは生命活動ではないか。些事にこだわるのも私の命の表れかも知れぬ、と書く。
筆者の私も他人様には関係なく、自分の知りたいことを探しては何かしら書き付けている。書いておかないと考えたこと、知ったこともどんどん忘れてゆくからである。これを人さまから見れば、地上を虫が這っていることと同じで、どうでもいいことのはずだ。それでも私にとっては命の表れである。何やら開き直った気分である。
唐木順三「鴨長明」という文章に出逢った。中に『往生要集』への言及があり、一部文言が引用されてある。
「ひねもす仏を念ぜんも、閑かに其の実を検ぶるに、浄心は是れ一両にして、其の余は皆濁り乱れたり、野鹿は繋ぎ難く、家狗はおのずから馴る、いかに況や自ら心を恣にせば、其悪幾許ぞや」
引用文は源信の原文(685年)のままのようである。おおよその意味は理解できるが、私は「浄心は是一両にして」という句にこだわった。一両の意味がわからなかった。あとにつづく、「其の余は・・・」を考えると趣旨は量が少ないことを意味しているはずである。そこで「両」という漢字が何を意味するかを知りたくなったのであったが、一対とか二つであることはすぐわかった。では一両と書けばどうなるのかが、いまの課題である。

当家のちゃちな辞書ではついに不明におわったが、ネットで『往生要集』に関連することを手当り次第に見ているうちに、一つ出会った。「浄心是一二」という表記が見つかった。これが通用するのなら「両」は「二」に置きかえて読んでよいことになる。中国語で「両」は「リャン」であり、数えるのに、イー、リャン、サン、スー・・・という。
さらにみてゆくと、『往生要集』現代語訳というサイトがあって、そこに当の部分は「浄心がほんの一、二に過ぎず云々」とでている。これは意訳であるが私がはじめ文脈から予想した意味と同じである。実に長い時間がかかってしまったが、辞書を見ても両に「ふたつ」や「対」の意味があることは書かれていても「二」に置きかえて使うという用法は示されていなかったから解が得られなかったわけである。大きな辞典には多分書いてあるのだろうが。
というわけで、これでいつでも死ねるとまでは思わなかったけれども、気が晴れた。
追記:「浄心是一二」の出典を書いておく。
顕意道教上人(1239-1304)の著『竹林鈔』巻上、第十、自力他力事
念仏をは申しなから妄念の起るに煩て、心静なる時の念仏は往生の業と成り、心乱るる時の念仏は往生の業に非すと思へり。随心念仏に善悪ありと云は自力也。『往生要集』に「終日念仏閑撿其実。浄心是一二。其余皆濁乱せり。野鹿難繋。家犬自馴たり」と知とは此意也。
websiteは竹林鈔ー本願力で得られると思います。
(2020/3)