ときは昭和23(1948)年7月、広島市比治山の東側、福吉美津江の家。美津江23歳と父竹造の二人芝居。
図書館に勤める美津江の前に文理大の講師木下が現れ、心が通うようになり始めるが、美津江は近しい者にみな原爆で死なれて、自分一人幸せを追うことに罪悪感が強い。一人娘の心を素直に幸せに向けようとして、死んだ竹造が美津江の前に現れるようになった。セリフを通じて状況が説明されピカの時から以後のことが語られてゆく。井上流の笑いとペーソスを織り込んだ進行に観客は和みながらも、原爆という社会問題がもつ事態の深刻さを理解できるように作り込まれた上等の芝居である。美津江の恋の応援団長を自称する竹造を初演で演じた役者、すまけいを見たかったと切に思う。
井上劇はわかりやすくて親しみやすい。それだけに見終わった後、よかったねぇと言葉を交わすだけで終わってしまう人も多いだろうが、それでは作者が気の毒だ。おそらくこの作品は読書会などで採り上げられていることが多いと思う。私はずっと聞かされ続けてきたはずの原爆問題について理解できていないことが多い、あるいは忘れてしまったことが多いことにあらためて気がついた。
木下青年は原爆による被害物を焼け跡から蒐集している。原爆瓦、溶けた薬瓶、顔がなくなった地蔵の首など。モデルがいたのかどうか明かされていないようであるが、ネットの中国新聞の社説に、同様の仕事をした長岡省吾氏が紹介されている。資料館の基礎を作った人物だそうだ。こういう人は他にもいるらしい。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?bombing=2017-26
木下が図書館に現れたのは収集物の置き場所に困ったからだった。しかし図書館にも置けないことを美津江は説明する。占領軍がそもそも蒐集にも制限しているのだ。作品ではそれ以上の説明はされていないが、占領初期にアメリカは広島・長崎の被害状況について相当神経質になっていたらしことは憶えている。彼ら自身が核爆弾について、あるいは核がもたらす人間への問題点について解明されていないことが多くあったためでもあったろうことは容易に想像できる。だからこの作品には現れていないけれども、あきらかに現在にも続いているこの種の問題は語り続けられなくてはならないだろう。
芝居の中で高熱で表面にトゲトゲができた瓦という表現がある。現在では原爆瓦とか被爆瓦という一般名詞になっている。高熱で溶けた現象との説明が普通だが現物を見ないことには理解しにくい。実験では1800度の熱で同様の状態が得られたとの説明がある(2017年9月15日「被爆瓦をご存知ですか」)。被爆瓦をご存知ですか
地上では熱線によって全てが溶け、次に爆風で壊れるという順序で存在物への被害が生じるらしいが、最初の熱線を受けた人体は瞬時になくなるはずだ。世の語り草の中に、「死んだことも知らずに逝った」という痛烈な表現ができている。写真展でよく見るズルムケになった皮膚を垂れ下がらせた被災者たちよりも、それより先に熱線で消えてしまった人が大勢いたはずである。文字どおり「なくなる」現象だ。「溶ける」ということについては、美津江が庭に持ちこまれた収集物の中に地蔵の首を見つけて、「あのときのおとったん」を思い出す。顔が溶けてしまった石地蔵の首だ。瓦といい、石地蔵といい、井上ひさしは何気ないふうに芝居の中に底知れない人間の悲惨さを持ち込んでいる。核爆発の原理とか状態など一度は何かで読んだりしたはずであるが、改めて考えようとするとあらかた忘れている。最初は何年間ものあいだ草一本生えないと言われていた。上空で破裂した爆弾はまず放射線を放出する、ついで熱線、次に爆風という順序だったかと思う。青白いピカは熱線だろうか。「わしは正面から見てしもうた。お日ィさん二つ分の火の玉をの」、竹造のセリフである。竹造は屋敷の下敷きになって救けられず、二人の間で納得づくで逃げた娘は骨だけは拾うことができた。同じ庭先にいながら美津江は石灯籠にかばわれて光線は浴びなかったが、体内に原爆症が残った。B29がなにか落としたのを見ようとして、思わず手に持っていた手紙を落とした。拾おうとして石灯籠のねきにかがみ込んだときにピカが光ったのだった。おなじとき、その手紙の宛名人の親友もピカに襲われていた。被災したその親友の母親を見舞うと、初めは泣いて喜んでくれていたが突然怒り出した、「なんであんたが生きとるん?」。背中一面に火膨れを背負ったその母親も月末に亡くなった。
だれもが逝ってしまった美津江の負い目を懸命に癒そうとする竹造。この世に現れるようになったいきさつを明かす。圖書館で美津江が木下を見て一瞬ときめいたとき、そのときめきから胴体ができた。木下の後ろ姿を見て、お前がもらしたためいきからわしの手足ができたんじゃ。二人いる係のうちで、うちのほうに来てくれんかなと願うたろ、その願いからわしの心臓ができとるんじゃ。娘に恋をさせようと思ってこの辺をぶらついていたのかと問われて、ニッコリする。恋の応援団長の登場である。これは劇のはじめのほうで明かされるユーモラスな場面であるが、終わりのほうになると、娘が自分の幸せに頑なに否定的になると怒り出して、自分たち親子のむごい別れ方を語り継ぐために代わりを出せという、代わりとは孫であり、ひ孫であって後々まで語り継がせなくてはならぬと息巻く。結局は美津江が納得して父に従うが、作者は孫やひ孫ということばで原爆症、障害、奇形などへの観客の想像を促している。放射線障害はいまだに爆心地からの距離で救済に差をつける考え方がされているが、ホントのことは分かっていそうにない。放射線は骨髄を冒す。造血器官の骨髄には成熟した血液になる前の若い細胞がある。被災当初は外見から気付かれなかった細胞への障害が後々現れるのが原爆症の特徴だ。美津江は光線を浴びなかったけれども放射線は浴びている。自身もすでに原爆症であることは芝居に表明されているが、木下と結ばれても、その将来には不安が残されている、というのが時限爆弾としての原爆を題材にする芝居の宿命である。観客は井上流の笑いとともに井上の訴えることを真摯に受け止めてあげよう。
ところで、タイトルの「父と暮せば」は条件をあらわす形であるが、後節をどんなことばで結ぶのがよいのだろうか。「父と暮らせば、前向きになれる」・・・。
井上ひさし「父と暮せば」、日本文学全集 27 河出書房新社 2017年所収 (2020/3)