里見弴(さとみ とん)、明治21年生まれ。古い作家であるが名前は知っていても、読んだ記憶はない。池澤夏樹個人編集、『日本文学全集 27、近現代作家集Ⅱ』に「いろおとこ」という短い作品がとられている。日本の小説の分野には花柳小説というものがあって、その文字が示すとおり芸者が登場する。
夏の終りのまだ暑い頃、とある別荘らしき座敷の60がらみの寡黙な男と40過ぎかの女性が過ごす三日間を、まことに手際のよい語り口で読ませる。その描写から女性の暮らしかたがみえる。こういうのをこの作家は得意としたのであろうが、自分も親の反対を押し切ってクロウト女性を妻にし、のちには並行して別の女性の面倒を見たりしている。昔風情そのままの人生哲学の持ち主だったようである。
夜の活動の旺盛ぶりにくらべて昼間はむっつり何かを考え込んでしまう男に、女は退屈して、しょうことなしに独り占いなどして付き合っている。帰ってくれてもいいんだよとの声にも、いいの、と付き合っている。3日目の朝、駅頭で上りと下りに別れた後ぷっつり音信なし。世に聞こえた人だのに誰に訊いても、唯一の親友・森に会ってさえも、曖昧に言葉を濁された。ふた月半ほどすると、突然、かの人の名が、日本はおろか世界中にさえ響き亘った。森を介して、心入れの品々を送り届け、たまさかの短い便りを喜び、新しい旦那に見せびらかして、痴話の種にしたりした。
翌々年の四月、華々しい戦死を遂げた男の遺骨を奉じて還った下役の者から、英雄の最期にふさわしい南の島の現場の模様を聞かされた。語る者も、聞く者も、共に泣いた。
ほどなく執り行われた国葬に、遺族ではないが、特に設けられた席で、思い余って泣き崩れる。―――
戦時を知っている読者にはネタバレ的であるが男のモデルは明かされない。短い中に女ごころを巧みに描いた佳編との評が高い。一読後、私は里見弴、本名山内英夫という人に興味を覚えてその生い立ちを知った。有島家の四男に生まれてすぐ山内家の養子になったが、ほとんど有島家で兄弟たちと過ごした。その有島家の長男が有島武郎である。Wikipediaによれば、武郎が心中事件で死亡したときには「兄貴はあまり女を知らないから、あんなことで死んだんだ」と言ったとある。また、本人は「白樺」創設に参加、その親友志賀直哉の手引で吉原で遊蕩していたとある。一方、文章については「小説家の小さん」と称され、文章の達人としてNHK人物録にアーカイブが遺されている。
NHK人物録 里見弴https://www2.nhk.or.jp/archives/jinbutsu/detail.cgi?das_id=D0016010113_00000
「馬鹿正直」で世渡りが下手だったと書いた伝記があるらしいが、その作者小谷野敦氏が詳細な年譜をwebに載せているから参考になる。里見弴 年譜http://akoyano.la.coocan.jp/satomiton.html
「いろおとこ」は原題は旧仮名で「いろをとこ」として短編集『自惚鏡』小山書店(1948)に所収されているが、占領下の1947年に発表されたので、知られることのなかった作品だった、とは故加藤典洋氏の解説にある。
新しい試みとして全編個人編集と銘打った池澤夏樹は、明治憲法時代の男性優位社会の反映とも言える花柳小説をいまどきどうかとの当方の思いに、日本文学は古来男女の仲が主題と考えての編集だという。最近は花柳界自体が随分新しくなっているだろうし、この作品の場面のような情景は見られなくなったかもしれない。それでもそういう時代があったことには違いないから日本文学全集に収められるのは当然だと言える。あるいは、ともすれば不倫だとか言い立てて当たりを取ろうとするメディアや作家とは別に、もっと静かにおおらかに進行する交際もあるはずである。ただし、この第27巻には単に色恋のことばかりでなく、さまざまな関係の男性女性が登場する。皇軍兵士の悪行もあれば原爆の悲劇もある。この巻だけで20編が収められている。楽しみな一冊である。
読んだ本:日本文学全集 27 近現代作家集Ⅱ 河出書房新社 2017年 (2020/3)