2025年6月21日土曜日

明治天皇が兎狩りに興じた話

今は昔、自然がいっぱいあったころには兎狩り は珍しいことではなかった。左はのちの習志野練兵場で近衛兵の訓練として兎や鹿を追いかけている図だ。「大調練天覧之図」(明治7年)。正面高いところに天皇の席がある。

明治6年、皇城と称した旧江戸城が焼失したため、赤坂の旧紀州徳川家屋敷を天皇の住まいとした。赤坂仮皇居という。明治21年まで。

その仮皇居御苑では近衛兵に兎を素手で捕まえさせる催しが明治13年ごろまで行われていたが、やがて野外での狩りにとってかわり、行幸されるようになった。明治初年の6大巡幸によって全国の国見を終えられたあと、天皇は13年の甲斐路巡幸の途次に目にされた武蔵野の風物に殊の外惹かれたご様子で、この方面に、山猟あるいは、鮎漁にと四度行幸された。現在の京王電車沿線の聖蹟桜ヶ丘近辺、連光寺村が中心であった。

私は聖蹟の語が何を意味するか知らないままに過ごしてきたが、迂闊であった。足の達者なうちに旧多摩聖蹟記念館を見ておけばよかったとは思うが、そこで何が見られるかを知らなければやはり足が向かなかっただろう。いまだからこそインターネットで情報が得られるから残念な思いもする。

偶然、保田与重郎「天杖記」を読んだがために、その地に郷愁に似た気持ちを持つようになった。四度にわたる御狩り行幸が四曲屏風絵でも見るような気分にさせられたからだ。現在のそのあたりの風景からは物語の切れっ端も見当たらないであろう。郷愁あるのみである。

天皇が狩りをするといっても、実はご自分が走り回るわけではない。天皇は高みに床几を据えて、皆の衆が兎を追いかけ、捕まえ、走ったり転んだりするのをご覧になるのだ。天覧である。一日の狩りを終えて宿舎での歓談も楽しそうである。明治天皇は酒が大層お好きであった。著者保田は大仰な敬語を用いて記述するが、「夜の大供御(オオミケ)にその猪お料理を聞(キコ)し召しつつ、豊御酒(トヨミキ)に大御頬も赤丹穂(アカニノホ)に遊ばす頃、山口等の語るままに叡感一入におわします」などの表現がある。

さて、狩りの行事は、狩場候補地の選定、下見、天皇への報告、実行指示、行動計画策定、現地に連絡などの手順が求められる。現在からみて、行政区画は高井戸以西は神奈川県であったが自然のありようは変わりようがない。赤坂と現地の距離の隔たりが障害であったのは道路よりも通信手段であり、人間による伝達のほかなかった。皇居で決まったことが最速でも翌未明に采配役の名主に伝えられ、即日実施といった具合だった。それでも狩場に必要な人数の動員、配置、行在所(宿泊・田中家)、御小休止所(富澤家)の準備などすべてに抜かりはなかった。現地にしっかりした人的なつながりがないとできない事業だ。連光寺の場合の冨澤家と当主政恕(まさひろ)政賢父子は誠に適任であったようだ。文中に紹介されている当主の長歌と短歌も奥ゆかしい。江戸時代を通じて我が国の各地農村にはこういう人的資源が豊かであったらしいことは、有名な渋沢家ほかの例にも多い。

追われた兎が山岡書記官長の胸にとび込んだ時、そっと抱き上げて天皇にご覧に入れたところ、その毛並みを愛でられて、皇居に持ち帰られたとの逸話も残された。このように、捕らえられた兎は殺すのでなく、箱に入れて運ばれて皇居の庭に放されたらしい。

「天杖記」には先発隊として宮様なども入る一、二の別動隊が組まれ、兎狩りの実施に先立つ日に猪を狩っている様子も描かれる。仕留めた猪は猟師の慣習通りに現場で鬨をあげてから、捌いて肝を煮て酒を酌み交わすなどしている。

あるとき宴果てて後、階上の寝所で山岡書記官長相手に座り相撲を遊ばされたとの記事がある。座り相撲とは、私は明治生まれの父親に教わったことがあるが、腕組みをして胡坐をかいて座った二人が対峙して、互いに脚で相手の足組をこじ起こして転ばす競技だ。夜更けの時ならぬ物音に、階下の住人たちはおののいたとある。ご幼少の頃より、やんちゃな性格でもあった。

夏の鮎漁もそれなりに楽しまれたようであるが、明治帝は川魚を殊のほか好まれたそうで、琵琶湖のヒガイには漢字「鰉」が造られた。またアユ料理では女官相手に、味わった鮎の産地を当てるなどして愉しまれた。これら逸話が「天杖記」に紹介されている。

「天杖記」は保田与重郎が古くからの友人の早川須佐雄氏に著述をすすめられたのを契機としてものされた作品である。また同じく「天皇の御杖」(児玉四郎作、昭和5年)という著述を教えられたのも早川氏であったが、行在所として使われた府中の田中三四郎旧宅を訪れた時に、図らずもそこで管理人を務めていた著者児玉氏に遭遇して御杖に関わる同氏の思いを聴取する幸運を得たのだという。

著者保田氏が「天杖記」の読者に期待する想いが述べられている箇所がある。すなわち、天皇のなさる所作に下賤の思慮なり解釈を試みるべきではない。神ながらの御教えには何の下心もない、大様でめでたいだけである。神ながらには、教えや諭しの寓意はないのである。神ながらの教えの素直な受け取り方が、今日では一番大切なことになった。それを物語るのが文学であり、また文学の生命である。著者の志す文学文章の任務は、畏きスメラミカド(皇朝)の神ながら生々たる発展の事実を、生命に喚起するところにあるが、この天杖記を読もうとする人には、始めにそれを考えてもらいたい。神ながらの自然(オノヅカラ)は、今日の人智の達した程度の道徳律で、これを換言してはならぬのである。         古い平安朝の文学では、ミカド(天皇)のめでたさを、その頃の道徳律に換言した聖徳という形にしるし奉ることなく、神ながらのみやびの、めでたく尊いありのままを、ただ美しく述べ奉った。ただ美しく楽しく写しまいらす、これが皇朝のものがたりというものの根柢であって、文章のみやびの根本であった。わが古典は、古事記に於ても祝詞にあっても、いづれも神の物語を、ただそのままに写したのである。わけても古代の祝詞のあるものは、自然界の現象のありのままをうつし、しかもそれによって、神々のお振舞と霊威の威力を、眼前にみなぎらして神いますさまを生きいきと描き出している。ここに言霊の本源があり、わが国のみやびの根柢があるということは、本居宣長も申されたところであった。と、長い引用になったが、ここで保田はみずからの文学の基本が宣長の国学に基づいていることを明らかにしている。

「天杖記」は兎狩りの山道で天皇がふと見かけた木を切りとらせて杖にしたのを山岡書記官長に下賜した。その杖がやがて越後の旧家のお堂の御神体になる物語だ。平和な狩りの物語と合わせて「天杖記」と題したのであった。

この作品は戦局ただならぬころ、作者が大患いであったうえ憲兵に監視される生活の下で懲罰的召集を目前にしながらという時期に書かれている。内容が盛り込み気味であるのも止む無しかとも思われる。良き時代の狩りの有様は貴重な物語である。            

   雪ふれば駒にくらおき野に山に遊びし昔おもひいでつゝ  明治天皇御製 明治45年

   山かげをたちのぼりゆくゆふけぶりわが日の本のくらしなりけり 保田與十郎

参照した本『鳥見のひかり/天杖記』(保田與十郎文庫 14 新学社 2013 第二刷)(2025/6)



















2024年12月5日木曜日

相撲の始まり

ノミノスクネとタイマノケハヤという人が相撲を取ったのが、今の相撲競技の始まりだということは子供のころに知った。
近頃、保田与重郎の「長谷寺」を読んでいると、野見宿禰という名がでてきた。
「長谷寺」は日本人の歴史を故地にかかる信仰を通じて探る論考であるが、日本の歴史発祥の地の地誌でもある。叙述は昭和39年(1964年)当時の事物に沿ってなされていて、採り上げられる神社ほか何事につけ由緒深いものばかりである。保田氏は大和桜井が故郷であり、その奥地初瀬は日本誕生の土地につながっている。
さて、「長谷寺」の記述には、垂仁天皇の御代の7年7月7日、大兵主(だいひょうず)神社の神域内で、出雲の野見の宿禰と當麻の蹶速(くゑはや)が相撲をして宿禰が勝ち、蹶速の當麻の領地を與えられた。これが節会相撲の嚆矢とされ、この大兵主神社が國技發祥の地といわれる所以であると述べられてある。
保田氏の記述は、野見の宿禰は土地の人であって遠く出雲の国の人でないというのが他と違っている。氏によれば、出雲というのは初瀬町の入口の部落として今も残っているのだそうだ。「宿禰の記事に出雲国とある国は、書写する人が知らずに考えて、脱字と思って入れた国だろうか」と、疑問視している。書写とあるのは記紀などを参照したことを意味する。
ならば、出雲とは遥か出雲の国ではなく、逸話は天皇の足元の土地の人同士の力比べの話になり、當麻の蹶速の力自慢に対抗できるものはいないのかという天皇の問いに地元の人間がそれなら野見の宿禰がいるよと応えた、極めて自然の成り行きに思える。
保田はつづけて、「出雲の野見の宿禰を迎える使者が、大倭國魂の大和神社の祭主長尾市(ながおち)であった。大国魂の神の司が、出雲の英雄を迎えにゆくのである」とおもしろそうに書いている。うまくできた話だと皮肉っているのだろう。
今の初瀬の町の西の出雲の部落が本来出雲で、宿禰の出身地でなかろうかというのは私の見解でないと保田は念を押して、三浦義一さんもそう考えたと書く。三浦さんとは、国技精神の顕揚に熱心に取り組んでいる人だとし、歌の作者として第一流の人だという。そして、泊瀬の国と稱えた以前、この山あいの奥地が出雲と総称されたと考えることも、のちになって、泊瀬の語意を終瀬と考えねばならないような事実にあった時に、一層切実に回想される、と述べて次のような事情を紹介している。
昭和のはじめ、初瀬村の笠(かさ)という土地に上代庶民の集団火葬地の痕跡が発見された。このことから初瀬を終瀬の意とするのは墓地のことを指すのであろうと推考している。そういえば終は「はて」に充てる文字でもあるなとは筆者の私見であるが、まことにかな音だけによる日本語は変幻自在である。
この初瀬はまた終瀬でもあるとの保田の見解は、「生命の根源である日と月が、朝と夕に、雄々しくなまめかしく昇ってくる谷あいと見た事実とともに、そこをまたいのちのつひのすみかとして考へたことは、わが本有信仰の発想にかなうものである」と日本人の信仰についての自説の根拠を示している。本有とは生まれながらにもっている」という意味であるから、日本人なら誰でも持っている信仰のありかた
の大元がこの土地の形にあることを述べているのである。

筆者の私はこの保田氏の文章を楽しんで読んでいるが、ほかの文献によれば、野見の宿禰と當麻の蹶速の力比べの実態は取っ組み合いではなく、蹴りあいであり、宿禰が蹶速の肋骨を蹴り折り、腰骨を踏み砕いたことで蹶速が絶命して勝敗がついたと伝えられているのである。しかも、これが節会相撲の嚆矢であるとは呆れるほうが先に立つ。
また、民をいつくしむ立場の天皇が、民のちから比べが殺し合いに終わることを承知していたと考えることにも違和感を覚える。
けれども、この天皇がたまたま垂仁であったことは、さもあらんと複雑な気持ちになる。
相撲は即位7年のことであったが、『水鏡』には、4年のこととして、妃の兄が妃をそそのかして帝位を奪うたくらみを持っているのを知り、その兄を討つと同時に駆け付けた妃をも焼き殺してしまった事実が述べられてあるのだ。
わが故郷を日本の国のふるさとに重ね合わせる保田氏には明らめたくないことどもであったのかとも思う。
(2024/12) 

2024年10月23日水曜日

音読の効果

 ふと思いついて音読をしてみた。保田与重郎「長谷寺」の初めの部分。黙読したときに比べて、読んだすぐあとに文の意味が明確になった気がした。同じ語彙でも黙読した時とは把握が違う気がする。

読み続けると口にやたら唾がたまってきて口の動きの自由が奪われそうになる。これは口の筋肉が弱っているからだと自己診断する。

音読すると自分の声を自分で聞くことになって、発音された言葉(語彙)が確認できる。この経路を繰り返して使うことによって、他人の発声による言葉の把握がしやすくなるという、つまり聞き返しが少なくなる効用が認められる。これは難聴者への朗報だ。

難聴者でも自分の声は聞こえる。伝音性難聴なら耳骨に響くことで聞こえる。感音性難聴では内耳が故障しているから駄目だ。私は後者だ。それでも聞いてみたい。補聴器を通じてでも聞けば、脳がそれなりに響きを聞き取るのではないか。ならば訓練になるだろう。はかない希望である。

保田与重郎の文章では一般の人に勧める際にやや遠慮がある、つまり広く知られた物書きではない。先生方の勧めに従うのがよかろうと、山口謡司氏の本を選んでみた。

推薦文がある。本文に先立って良いことづくめが並んでいる。音読すると、「1、気持ちが落ち着きます。2、やる気が出てきます。3、ストレスが解消し、抵抗力がアップします。4、脳が活性化されます。5、誤嚥性肺炎の予防に役立ちます。」と並んでいる。私が期待する、耳が鍛えられますとは書いてないが私は期待する。溺れる者の藁みたいなものかも知れないが、まぁいいさ。

冒頭に書いたように音読は黙読より文が深く読める気がする。面白い発見もある。

斎藤茂吉さんの「曼殊沙華」(昭和10年)という随筆。「曼殊沙華は、紅い花が群生して、列をなして咲くことが多いので特に具合の好いものである」という書き出しだ。

これを音読した直後は、いったい何が具合が好いのか。具合が好いってどういうことだろう。たかが花の咲き方に具合の良しあしがあるのだろうか。具合って何だ。はじめは、茂吉さんは歌詠みのくせにおかしなことを書くなぁ、などと思う。繰り返し読み直しては考えるうちに、茂吉さんが気持ちよく感じるうえで都合がよいのだという風に解釈した。都合も具合も漢語ではないようだ。何とはなしに「ことばのあらわし」が話し手の気持ちをあらわしているように感じられる語である。まことに歌詠みらしい言い回しだ、などと勝手に解釈した。

音読は老化防止とか認知症に効くとかだけでなく、ことばを知る楽しみも増えると言えそうだ。負け惜しみの弁だが。

参照した本:山口謡司『おとなのための 1分音読』自由国民社2019年

(2024/10)

2024年10月22日火曜日

中昔のこと、あるいは日本語の楽しみ

  昔の文芸評論家の保田與重郎さんは故郷の大和を愛してやまなかった。Wikipediaには、1910年(明治43年)4月15日 - 1981年(昭和56年)10月4日と、その生きた時代が記されている。文芸評論の分野では日本浪漫派(にほんろうまんは)の中心人物に挙げられて、戦時下の日本では毀誉褒貶がかまびすしかった人だ。私は単純に、大和に生まれて生涯その土地の歴史風土を愛し、日本を愛したその人となりに好意を抱いている。私も大和が好きだからに他ならない。
「長谷寺」という文章がある。昭和39年に書かれた。いま私はその文章を保田與重郎文庫17 新学社 2001年刊によっている。旧漢字旧仮名遣いの文だ。
 読み始めてまもなく、「中昔」という言葉に出会った。このところ健康維持の一環としての音読に関心を向けている私は、「中昔」を何と読むか判定できなければ先に読み進む気になれない。
 長谷を信心してきた中昔以後の人の心は、今日の山村の老婆の思ひと、ねがひごとの期待ではかはりなかった。(8ページ)

広辞苑第5版に出ていた。「中昔 なかむかし  上代と近世の中間。あまり古くない昔。中古。近世。」とあって、お伽草紙『鉢かづき』の「~のことにやありけん」と出典例を挙げてある。    

この説明で、中昔の読みと意味が分かったけれど、今度は「鉢かづき」が何のことやら、気持ちが落ち着かない。調べると、「かづき」は「(頭に)かぶる」の古い言い方「かづく」の活用形だそうだ。
享保年間(1716~36)に大坂(=大阪)の書肆が出版した「お伽草紙」23篇のうちの一編「鉢かづき」の中に使われているということだ。
で、そんなに古くない昔、大阪の寝屋川という在所での、鉢をかぶった女性にかかる物語で、当時の観音信仰にまつわる話でもあるらしいが、ここでは詳述しない。

更に読み進むと、「近昔」というのが出ている。こちらは広辞苑にもないが、さきに中昔があったからには、読み方はチカムカシでよいだろうし、意味もそのまま聞いてわかる。
このあたりまで読むと、保田氏の学問は本居宣長の学風に沿っていることがわかってくる。
本稿は学問の筋ではなく言葉を考えることに目的があるので、話題をハセと呼ばれる地名の漢字表記が「初瀬」であったり「長谷」であったりする理由をさぐることに振り向けよう。
『更級日記』に、作者藤原孝標女(ふじわらのたかすえのむすめ)が長谷寺に詣でるにあたって初瀬の精進(はつせのさうぜ)をはじめたとの記述がある。参詣するためにあらかじめ身を清めるために日常生活を慎む、精進潔斎に努めることをさしたものであろう。
初瀬は、現在の奈良県桜井市の地名である。呼び名の古くはハツセであったが現在ではハセである。また、古くは地名のハツセにかかる枕詞が「こもりく」であった。山に囲まれたところの意であるが、ハツセが枕詞を持つことから古い呼び名であることがわかる。
日本のことばの本来が音声であって文字を持たなかったことに常時留意する心掛けが大切である。知らない言葉を聞いたときに、どんな漢字を書くのですかと訊ねるのは、その場の話柄によって考慮すべきことであると思う。
音声言語の日本に漢字が伝えられるとともに、地名をも漢字で表記する要請にもせまられたことで漢字の選択に工夫が重ねられた。しかし表記するモトが一元的に確定されないままに推移したから複数の表記にひとつの読みが与えられることにもなった。すなわち初瀬、泊瀬、長谷が同じ読みハセを持つ結果になった
峡谷の峡はハザマを意味し、ハザマの動詞はハサム、その語幹がハセであるとか、国語学者は解説する。長谷川は長い峡谷を流れる川でハセガワである。ハセガワが先か長谷川がさきか、問題にする必要はない。日常の話し言葉に漢字は必要がなかったのだ。今に残る言い方を表す音声文字に優劣前後はあまり問題ではない。日本のことばはおおらかなのである
長谷寺についても念を入れておこう。鎌倉の江ノ島電鉄の長谷駅で降りると大仏と長谷寺に行ける。大仏があるのは高徳院で長谷寺とは別のお寺である。
鎌倉の長谷寺は736(天平8)年に、686年創建の奈良の長谷寺にならって建てられた、どちらも十一面観音を本尊とし、それが同じ一本のクスノキから造られたという説がある。
さて、さきに私は音読に関心があると書いた。ハセのことは措いて音読のことをすこし書いておこう。高齢者に音読は効き目があるということに注目した。
もともと読書が脳に効くことはよく知られていて、脳科学者の川島隆太氏などがずいぶん以前から読書は脳の前頭前野を刺激すると研究成果を広く伝えている。
私が最近注目したのは音読が耳にも効くという一事である。音読をすれば、おのが耳でおのが発する音を聞くことができる。耳栓をして音読すれがよくわかると説く向きもある。要は骨伝導で聞こえるわけだ。伝音性難聴であれば、骨伝導で矯正の効果はあるかもしれない。けれども、私の難聴は感音性なのでなおらないそうだ。それでも自分の声をわが耳で聞くことは、発する言葉を聞き取ることなので、難聴者が声が聞こえても言葉が聞き分けられないという聞き分け障害に対して改善する効果はあるかもしれないと思う。つまり聞き取り訓練である。音声を聞いて理解するのは耳と脳との共同作業である。相手の話す言葉を逐一耳が聞き取って理解するのではなくて、脳が既知のことばを思い出して耳に協力しているのだそうだ。発声を繰り返すことで聞き取りとか聞き分けの訓練ができるかもしれないことにかすかな望みをもったというわけである。
音読は黙読より丁寧に文を読むことになるから理解に役立つのは確かである。
というわけで、一般の音読練習用の名作などでなく自分が読みたい文の音読をしてゆくつもりでいる。それが保田与重郎さんの作品を取り上げたわけである。
参照した本:保田与重郎文庫17 新学社2018
(2924/10)

2024年8月26日月曜日

広辞苑にあそぶ

私的な事情で長いお休みをいただいた。今はすっかり変わってしまった環境でとりあえず新し文章を書く。

不本意な住まいの引っ越し作業の中で、ふと移動荷物からはみ出して置いてきぼりになりそうな気配の『広辞苑』が目に入った。持ち主にとっては見逃せない一点だ、そっと抱えるには重かったけれど、無事現在も手元にある。第7版、2018年刊行。

ふと思いついて、幼児から少年時代、不定期に生活を共にした祖父母の言葉遣いが折に触れ思い出される際に、日本語としてどのように扱われているか知りたくなったのがいくつかあるのを調べてみる気になった。私の場合祖父母と言えば実質的に母方のそれであり、父方は形式的なつながりであって私の成長にはほとんど影響していないという自覚がある。

ここに紹介するのはふるさと紀州の言葉である。紀州にはヤマトコトバと思われる語彙があり、また方言的な言い回しも多い。 広辞苑に採用される言葉には言い回しとしての方言は含まれないようだ。そうであっても結婚後初めて親戚の集まりに出た妻が強烈な印象をもって可笑しがる言い回しがある。~のし、で終わる話し方だ。

あのねぇ、とか、そうですねぇ、という場合の「ねぇ」にあたる「のし」だ。あのノシ…、そうよノシ…、などというが、私たちの世代では中年以上の女性特有語であったようだ。

広辞苑採用の範疇の語では、たとえば、「てんごしよすな」と祖父に叱られたときの「てんご」がある。いたずらとかふざけている場合にとんでくる。しよすなは、するなの方言だが、テンゴは歴史的仮名遣いテンガウとして広辞苑にある。おどけ、ふざけの意味で、テンゴウと書かれたこともあるらしい。歌舞伎や一代男に例多しとある。~がき、~ぐち、~ねんぶつ、~のみ、などが挙げられている。

「アッタラことした」とは祖母がよく使った。アタラの促音化した語で、漢語表記は「可惜」、惜しいことをしたとの意味だ。アタラモノ可惜物は惜しむべきもの、せっかくのものの意味だ。

最晩年の祖母は敷布団の上で上半身を起こした状態で座っていた。背中に掛け布団を丸めたのを当てて上体を支えていた。これを家族はカイモンをすると言った。カイモンはカイモノであり、支えるものをいう。広辞苑には「かう」表記は[支う]、歴史的仮名遣いでは「カフ」とあるのがこれに当たる。支えにするとの意味だ。日葡辞書の「カウバリヲカウ」、つっぱりをかう とでているのも面白い。

冬の寒い夜には夜具の中にアンカを入れていたのを思い出す。六角の筒形の木枠に宙吊りされたお椀型の火皿がある。たとえ蹴飛ばして転がっても火皿は常に上を向いているから、中の灰もたどんも無事だというなかなかの優れものである。ところで、アンカとは何ぞやと広辞苑に伺うと行火(唐音)と出た。行燈、行脚、行宮、行在所と同列の漢字「行」であった。漢字「行」の字義までは広辞苑では探り切れないが、行火の説明は炭火を入れて手足を温める道具としてあるから、火を本来の火床から移動させることからこの字を当てたと自己診断しておく。

思い出すままに調べてみたが『広辞苑』は重いだけではない。生きた歴史が詰まっている。

重さをいとわない限り楽しい道具でもある。(2024/8)

2024年3月18日月曜日

『日高六郎・95歳のポルトレ 対話をとおして』黒川創

 101歳まで長寿を保った学者さんが高齢者ホームに入居してどのような暮らしを送ったのか、近いうちに同じ状況になるはずのわが身にとって何か参考になるかもしれないと身勝手な考えで読みはじめた。

表紙の写真では車いすに座っている。入居するまで夫妻ともに施設には拒否感があったらしいが、すでに94歳と82歳では自立した暮らしをするには限界を超えているのは自他ともに認めるところだっただろう。辺鄙な立地が多い施設の中で、そこは京都市域の一角には違いな    く、かつて教職に就いた京都精華大学が近くにあり、同じ岩倉の歩いて行  けそうなところには鶴見俊輔さん宅もある、という具合でまるっきり不案  内な場所ではない。来客が多かったであろう暢子夫人にとってはつらい生  活かもしれない。

二階建ての上層階に並びの部屋を借りている。広さは簡素なホテルのツインベッドの部屋程度だという。ベッドは日高六郎の名札のある部屋に2台並べてある。夫人は日中ベッドに腰かけてテレビを見て過ごすことが多いようで、六郎氏もわりあい一緒に見る。入所者を集めてする軽い体操や遊戯の時間もあるがそれには出向かない。画家、エッセイストとして知られる暢子夫人の部屋には、以前描いた絵のカンヴァスがしまってある。今はもうあまり描く気はないらしく、部屋は中ほどに折り畳み式のテーブルが一つ置かれ、壁際に女性の肖像を描いたカンヴァスが立てかけてあるほかはがらんとしている。

ただこうして時間を過ごすだけでは、ストレスも不安も増すだろうと、入居まもなく訪問した黒川は心配している。訪れると、六郎先生は「やぁー」と迎えて、すぐさまほんの今まで考えていたらしいことについて語り始める。おしゃべりが好きなのだ。運動など体力維持には無関心だ。

ここに移る前は下賀茂にマンション住まいだった。先行きの暮らしを気にかけてくれる取り巻きの面々がこの新築の施設を探し出して引っ越しから何からすべてやってくれたようだ。引き換えてわが身の場合はどうしたらいいかとやや不安になる。

それ以前の夫妻は1989年から2006年までパリの自宅で過ごしていた。2005年刊行の『戦争の中で考えたことーーある家族の物語』(筑摩書房)はフランスで書き上げた。内容は日本の敗戦1945年までの記録である。

パリに出かけたのは、べ平連でフランスに向けて送り出した脱走米兵たちがどうしているか見に行こうと思い立ってのことだった。1971年だったが翌翌年にパリで自宅をを買ってしまった。鎌倉の旧居は処分した。暢子夫人の意向が強かったのであろうが、利用法がいろいろ議論されたようだ。日高氏らの世話になった脱走兵たちも訪ねてきた。夫人が中心のサロンみたいな様子だったろうか。そのうち1974年、六郎氏が帰国している留守中に、暢子夫人が日本赤軍に関係しているとの嫌疑がかかって逮捕される事件が起きた。集まりに部屋を貸す日常から生じた誤解らしいが、結果は夫人がかかわっていないとわかって釈放され、夫婦ともに帰国した。しかし、以後夫妻に長期ビザが下りなかった。それから15年間、フランスに自宅がありながらもどれなくなった。この事件にはおまけがついて、オーストラリアのラ・トロープ大学とモナシュ大学から六郎氏に招聘があったが、出発間際にビザ発給が拒まれた。オーストラリア政府からの問い合わせに対する日本政府の態度が底の浅い冷淡なものであったらしい。「わたしはチェリー」と不思議な発言をした桜内義男外務大臣だったようだ。

話をフランスに戻せば、パリの日高家には犬が二匹いた。飼い主は警察に拘留中でも犬に餌を与える権利がある。毎日夕方になると拘留中の者は警官に連れ出されて、肉を買ってそれを柔らかくして犬に食べさせて警察に戻るまで、ずっと警官が一緒にいる。守られるのは犬の権利か人の権利か。なんとなくフランスらしい。

2006年秋ごろ、暢子夫人が変調をきたして精神科にかかっていた。医師は日本に戻って治療するほうが良いと帰国をすすめた。京都の病院に入院したが、医者のはからいで六郎氏も病院で過ごせるようにしてくれた。その時期が過ぎて下賀茂でマンション住まいののち2011年、老人ホームに移ったということになる。夫人の再発の可能性はあるらしいが、そのときはフランスに戻してくれと夫人はいうらしい。あちらには無料の病院もあるし、とか。それはそれとして両人ともに衰えてゆく。六郎氏は車椅子になったし、夫人もよく転ぶ。それでも暮らしをどうするか、あまり考えない夫妻だったと黒川の観察だ。

黒川は日高の哲学とでもいうような考え方を最後に問うている。日本を分析する道具として鶴見俊輔は「お守りとしての言葉」を考え、丸山真男は「天皇制」をかんがえた。で、日高六郎は何を基準に考えるのか。答えは「人間」だった。

戦後60年、本当の社会民主主義的な政権が日本に一度も現れなかった。これについて一般の民衆の受け止め方はどうなのか。フランス人は、重要な政治問題が出てくると、みんながそれに注目する。悪いほうへの動きが現れると猛烈に怒る人間がたくさんいる。怒る原動力が社会に備わっている。日高はそういう風な動きは日本には現れないから、状況がひどくなれば逃げるほうがいいとさえ思う。亡命だ。ヨーロッパ人にはこれができた。ナチスに対するトーマス・マンのように。スペインのフランコ軍事政権が倒れたとき、フランスから亡命者たちがどっと帰っていく。フランスに残った人もいた。人間がどこで生活するかは自由でなければならない。脱走兵にだって自由がある。1971年のパリにはNATO軍からの脱走米兵がうじゃうじゃいた。警察に申告して名前と引受人を届ければよい。住まいも生活費も生きる道も保証しないけれども住んでよろしいと許可証をくれる。日本ではべ平連が一生懸命に彼らを匿った。いいことをしたような気持でいたけれどどうなのか。脱走兵一人ひとりの動機はバラバラ、個人の生き方だ。軍隊での捕虜の扱いも日本とは違う。フォークランド戦争で捕虜になった英国兵が条約に基づいて戻されてくると英国では庶民が挙げて歓迎した。日本の軍隊では自殺を強要した。日高がこういう話をするのは、人は生きたいように生きればよいという思想を話しているわけだ。

青島に生まれた日高は父親に、ここにいたら権力、武力の下で人間が堕落するから日本で勉強するように厳しく言われた。生まれ故郷にいたら道徳的な居心地の悪さが魂に棲みつくというわけである。ならば、日高六郎にとって日本がそれにとって代わったかといえば、そうはならなかった。黒川はこの本の締めくくりの章を「異郷にて」と題した。

この「ポルトレ」は肩は凝らないけれども理解が浅くなる。対話中心だからやむを得ない。人物への親しみは増す。社会学などという看板に関係なく、日高六郎さんにもっと近づきたいと思う。すでに故人であるが、遺された著書は多い『戦争の中で考えたこと』(2005年)、『戦後思想を考える』(2019年)、『1960年5月1日』(1960年)などなど。

(2024/3)

 

 

2024年2月28日水曜日

『日本精神史 近代編 下』より日高六郎さんのこと

(本文とは関係はありません)

精神史とはどんなものか。社会史から、ひとの行動や思想を取り出したものなのかな。

長谷川宏さんの『日本の精神史』近代編(上)「はじめに」はその方法が書いてある。

「美術と思想と文学の三領域にわたる文物や文献を手がかりに、そこに陰に陽に示された精神のありさまをことばにする」 。以下は下巻を読んだ感想の一部である。

16章 時代に抗する種々の表現 には、1として堀田善衛と日高六郎を置く。ここでは後者について述べる。

日高について、「80年刊行の『戦後思想を考える』(岩波新書)以降、自分の目の前にある身近な具体的な事実にこだわり、その意味を自分がかつて経験した、これまた身近な具体的事実と対比しつつ思考するもの書きだった」「『戦後思想を考える』の底に流れるのは50年代後半に始まり60年代、70年代にまで続く高度経済成長に対する根深い違和感、疑問、批判である」(358ページ)。

人びとは戦後の貧困と混乱のなかで身を粉にして働き、少しでも豊かな楽な暮らしを手に入れようとした。戦争と軍国体制への反省から、平和と民主主義の実現に向かって努力を重ねてきた、と著者が書く時代に、私は中学、高校、大学へすすんでサラリーマンになった。1万円をかろうじて超える月給が嬉しかった。やっと自分の自由になる金を持つことができた。

60年代にはいる頃、社長が代わって給与体制が大きく変わった。思えば入社後2、3年の間は組合活動に駆り出されることが多かったが、いつとはなしにそういう活動がなくなったのに今更ながら気がついた。本書の著者が「60年代に高度経済成長の名で呼ばれる流れが目に見える形を取ってあらわれ、多くの人が生活水準の向上を実感できるようになった」と書いているとおりだ。だが、平和と民主主義への願いと努力はどうなったのか。

反戦平和の声はけっして小さくはなかったものの、自民党政権の再軍備やアメリカ軍への基地提供を阻止することはできなかったし、民主主義に逆行する差別や不平等や人権侵害はいまだ社会に根強く残っている。

と著者が続けて書くのは高度経済期と呼ばれた昔のことであるが、世紀が変わってしまっているいまも同じであるのに気がつく。サラリーマンで夢中に過ごしたころの自分はまったくのノンポリであって、仕事の進め方や得意先とのやり取りに日を送っていたから、「人びとが政治・社会状況への広い関心を失い、私生活の快適さに埋没していくありさまに並ならぬ違和感と危機意識をもった」日高六郎氏とは大違いである。

そして、日高氏は「こういう受け身の生活の中でわたしたちは権力者の敷いたレールに乗せられていくのではないのか」と問う、と著者は解説してくれる。「個人の日常生活、その中での生活態度や姿勢が、じつは戦争そのものの遠因となり、戦争を始めさせ、戦争の一部を支える力の一部となっているということだ。[中略]戦争のある部分を育てたものとして人びとの日常性がある。」(『戦後思想を考える』34ページ)

しかし、だから生活と意識のつくりかえが肝心だという時代認識は当を得たものであっても、その実現は至難である。そこで考え出されたのが「自立と連帯」だ。「連帯」の初発の形は、労働者の団結よりもっと小さな家族あるいは友人あるいは隣人とのコンミューンであろう、と考える。私生活優先の時代にあっても、自立と連帯とコンミューンは作り出せると日高は考えていた(本書362ページ)。

そこで著者は『戦争のなかで考えたことある家族の物語』(2005年刊)を紹介している。太平洋戦争以前から中国の青島市に住んだ父・母兄弟4人の家族が心のうちに強い批判の心をもち続けたなかで、末弟八郎が家庭新聞『暁』を創刊し、4年半続いた後、盧溝橋事件の一年前に無言のうちに終刊にする。六郎は学校での自分と家庭内の自分を二重人格かと疑いながらも自分の心を守る。自分の心を守ることが家族の自然な人間関係を守ることに通じていたことを長谷川氏は強調している。

抵抗の持続が家族のふるまいとしてあらわれる場面が本の最後にでてくる。

兄、三郎の戦死公報が届いたとき、「父は鎌倉市役所にも隣組にも内密にした。父と母と長兄と私(六郎)だけが仏壇の前にあつまって、父の読経につづいた。八郎は海軍下士官として舞鶴にいた。これ以上にひそやかな、これ以上に心をこめた葬送のいとなみはなかった。父は天皇のため、国のための一言も発しなかった。……それは私たち家族だけの事件であり悲しみであった。そして私たちが感じたのは、公的に口外できない怒りであった……」。この父は一度も靖国神社に詣でなかったとも書いている。

このとおりに受けとめたいが、もしこれが向こう三軒両どなり式の密集した町家であったなら郵便配達夫が来ることだけで事情はすぐにわかっただろうと想像する。しかし、たとえ秘密が守れなかったにしろ、この家族は揺るがなかったと思う。これは余談だ。

この著書の副題は「ある家族の物語」ではあるが、家族外との関係も不問にしているわけではない。外との関係は当然著者日高が20歳を超えた青年期以降にかえって強く意識される。戦争への抵抗の精神と自他の人格及び自由を尊重する寛容の精神が、その心にしっかり生きて根づいていることは驚くべきことといえようか、と長谷川さんは述べている。こうしてさらに日高の東大から「海軍技術研究所」時代の抵抗精神の記録へと話題が進む。

こうして読者のわたしたちは社会学者日高六郎さんを偲ぶことができる。なるほどこれが精神史という作物であるかとも。

日高六郎さんは201867日京都の老人ホームで老衰のため亡くなった。享年101歳。 

(2024/2)


  

2024年2月10日土曜日

『日本精神史 近代編 上』を読んでみる

朝日新聞に紹介されていたのに気をそそられて読んでみた。下巻のほうがよく親しんだ書き手が多いので先に読みたかったが、あいにく図書館では貸出中だった。著者は、すでに江戸期までを上下巻の二冊に編んでいて、新たに近代編を同じ手法で引き継いだという。その探求の手法は、美術と思想と文学の三領域にわたる文物や文献を手がかりに、そこに陰に陽に示された精神のありさまをことばにするやりかたである 。著者は敗戦翌年の1946年に小学校入学という世代である。身近な体験は歴史と時代の流れとさまざまに交錯するが、「体験を客観化できるような広い視座のもとで時代の精神に形を浮かび上がらせたい」と述べている。その著者より一回り早く生まれている読者の私は、本書の行間に想像を巡らせたり、記憶を辿ったりしながら読み進むが、著者の知識にはもとより及ばない。新しく知ることのほうが多く、知っているはずの事柄にもあらためて教えられることが多いという経験をした。文章が易しいのが魅力だ。萩原朔太郎についての場合など、当方が詩に不案内のために難しく感じることはあっても全体的に読みやすい。この著者はヘーゲルをやさしく説くことで知られているそうである。脳が弱ってきたいまの私が読んだことを蓄積するためには、繰り返して読むことが必要になるが、この本は分厚い。上巻は540ページあるから読み返すのも大儀ではある。
最初に登場するのは画家の高橋由一、この人の名はおぼろげに思い出した。油彩画の『鮭』の人だ。明治維新のときにすでに40歳、武芸にも秀でていたが病弱のため幼い頃からの画才で身を立てる。洋製石版画を見て「絵がなにからなにまで真にせまっている上に、なんともいえぬ味わいがあるのを発見し」て洋画習学を志して幕府洋書調所画学局に入る。油絵の絵具や絵筆の何一つ揃わない頃、唐絵や大和絵の道具などで工夫した。由一自身の言葉に、西洋の画法は[真をうつすこと」(「写真」)を本質とする、真を写す洋画は国家社会に役立つなどとある。この国家社会に役立つというのは師の司馬江漢を見習ったのだと著者は説明する。それは、何をどう描くかにある。著者は洋画の写真性をリアリズムの語に置き換える。絵を描くことにリアリズムを求める点で由一は司馬江漢の忠実な弟子だった。 
「思想が豊かであって、描かれていないもののおもしろさまで想像できるような妙境に達していなければ、愛するに値しないし、後世に残す価値がない。筆の運びが緻密でも、なにをどう描くかがきちんと考えられていないものは俗っぽく下品な絵であって、筆の跡が粗略でも、なにをどう描くかが考え抜かれた絵は品が良く格調が高い」。

 これらは由一が油絵の価値と魅力をどのように捉えていたかを示す文言を著者が現代文に訳した文である(『日本近代思想大系17 美術』岩波書店1989年195ページ参照)。

で、その由一の精神のさまを著者は『豆腐』と『鮭』の二つの静物画に照らして追跡している。本書にはこの二作のモノクロ写真が示されて著者の解説があるがここでは割愛する。「表現のジャンルはちがうが、坪内逍遥も、正岡子規も「実」を写し「生」を写すのに全神経を集中して世界と向き合い、おのれの表現と向き合い、どこまでも続く実験と探求の道を歩まねばならなかった。一歩一歩の過程の集積によってしか出来上がらぬリアリズムの世界は、理念が定まればあとは勢いで行けるというものではまったくなかった(30ページ)。その都度新しい経験を積まなくてはならなかったというわけだ。由一のことばに「絵というものは精神のなす仕事なのだ」(岩波前掲書173ページ)というのもある。求道の精神だ。

現在の読者にはインターネットで絵を見ることができる便宜がある。美術館ゃオークションの見本などで色彩まで見ることができるのはありがたい。どうしても見つからない作品、たとえば村上華岳『晩照帰鴉図』、本書に写真もない。こういうのは、著者が細部にわたって説明しているからには美術全集などで見られるのであろう。

第一章 「近代の始まり」には、もうひとつ『米欧回覧実記』を題材においている。私にとっては30年ほど前に日本語の語彙をさぐるのに利用したり、掲載の銅版画の風景をいまに求めてスイスを旅行したりした懐かしい書物である。私は岩波文庫で読んだが、内容に興味をもった4歳下の友人は現代文の版でしか読めないと言った。いま戦乱に荒らされているウクライナの広大な農地は、この書物での車窓に見えるロシアの風景なのかもしれない。

何でも見てやろう精神の記録とでも言えそうな『米欧回覧実記』は、リアリズムが新しい時代を切り開こうとする人びとに共有された時代精神にほかならなかった。岩倉大使一行に随行した、のちの歴史学者、久米邦武の編纂による記録は何もかもが克明だ。かつて私が一部を利用した銅版画は300枚以上もの各地の写真を銅板に彫って挿絵にしたものだそうだ。

明治初期に結成された岩倉使節団は、政治権力者や知的エリートをもって任じる人物を多数ふくむにもかかわらず、海の向こうから押しよせる西洋文明にたいして、その力強さ、その広がりの大きさと奥深さにたいする驚きと戸惑いをもちつづけ、旅の途中でも記録の編修に携わる時期においても、文明に学ぶ姿勢は強まりこそすれ衰えることはなかった。学びの難しさ、ゆたかさ、楽しさが強く実感されているかぎり、人びとの上に立っているという意識は背後に退き、むしろ、自分たちの経験した事柄を人びとにきちんと伝え、人びととともに学んでいこうとする姿勢こそが全面に出てきたのだと思う。(44ページ)

と著者は書くが、現在の我が国の政治家と自称する人たちに是非学んでいただきたいものだ。さらにまた著者は、「西洋各国の外交は、表向きは親睦と公平の形を取るが、裏ではつねに相手の権謀を疑っている。[…中略…]ヨーロッパの国々が戦争中にめぐらす権謀にはあらゆる嘘が入りこんでいる。」(文庫三、116ページ)と批判のことばを引用しながらも、これによって読者は驚くことはないし、不愉快になることも溜飲の下がるおもいをすることもなく、冷静に事態を受けとめることができる。書き手に学ぶ姿勢が保たれているためだ。学ぶ姿勢が全編をつらぬいていることが、この啓蒙書にたぐいまれな知的爽快さをあたえていると思う。」(45ページ)と締めくくっている。

さて、このような学ぶ姿勢でいられる時代は長くは続かなかった。やがて日本人は日清・日露の戦争と国家主権の確立と地政学的な領土問題に直面する。福沢諭吉は啓蒙家として大きな足跡を残してはいるが、文明を楽観的に展望し、個人の学ぶ力の養成を説く姿勢はいざ帝国主義のもとに大陸進攻がうたわれる頃になると、その主張も国策に沿って変化する。

このあたりの問題について著者は、「なによりの問題は、個としての人間一人一人を、独自の思考と意志と感情をもつゆたかな主体的存在としてとらええない人間観の貧しさにあると思う」と鋭い。新しい世界とは、文明が進歩する社会にあって個人もともに進歩するものと楽観的だったようだ。

近代の原理とは、共同体に包摂されてきた個人を、独自の意味と価値をもつ一存在として打ち立てることだったのである、とは著者のことばである。共同体の中で仲間と一緒に過ごしてきた自分が、ほんとに自分が満足しているか、他にやりたいこともあるのではないかなどと思いめぐらすとき、自分に目覚めるなどという。独自の意味と価値をもつ一存在とは、目覚めた自分のことである。こうなると周囲と難なく打ち解けていた自分が変わってしまう。近代の原理とは自分と周囲との対立や矛盾のことだ。共同体と自己との矛盾は現代でもところに応じた形になって世界中で生じる。人間をこういう生き物だと思ってしまえばそれまでであろうが、人はなんとかしてその矛盾を乗り超えようとする。どうも福沢先生はこのあたりで行き詰まることを想像しなかったみたいだ。

近代の原理が日本の社会に根付くのはいまでもむずかしいが、福沢が富国強兵や殖産興業、さらに海外侵略に快感を覚えたのは、そういう時代に生きた人の限界だったのだろう、ということを私は教わった。個と集団の矛盾という問題は、いつも新しくて解決しないのは、最近の日々の社会的出来事で感じることだが、同じ事象が起きていても福沢の時代には人びとは、そのおかしさを感じとることができなかったにちがいない。人間観の貧しさとはそういうことだろう。

福沢の説く啓蒙思想は時代が進むと、富国強兵や海外進出を推奨するものへ変質した。精神史は読んで字のとおり歴史であるが、時代時代の精神はその時どきの人びとの活動状態にあらわれる。人それぞれにその時どう生きたのか、記録が大事にされてこそ真実が解る。話がとぶが、現在という時代の日本の精神史はどういうふうに描かれるだろうか。片っ端から記録が消されるいまは、暗闇を前にしたたそがれの時代みたいだ。

上巻は第十章まであり、韓国併合や大逆事件という国の右傾化、鴎外と漱石、柳田国男の民俗と柳宗悦の民芸、斎藤茂吉、宮沢賢治など、どこを読んでも私にはおもしろいし、著者の書きぶりはやさしくとも繰り返し読んで自分のことばでの表現にしてみる楽しみもある。あとに下巻も控えているが、読み通すまでが大変だ。

読んだ本:長谷川 宏『日本精神史 近代編(上)』2023年 講談社

(2024/2)




2023年11月11日土曜日

38年前の事件ーー日航123便墜落

阪神タイガースが日本シリーズで優勝した。38年ぶりだという。前のときは芦屋高校の同級生が紅白饅頭を送ってきた。今のマンションに越してから18年、それよりずっと前のことだ。昭和のあとは平成だ、そして令和だと日本の年号は通しで年数を計算するときは厄介でしかない。38年前は西暦の1985年だ。そうであるなら、別の事件がある。御巣鷹の尾根に日本航空のジャンボ機が墜落した。1985812日。8月の記念日、広島、長崎、敗戦にもう一つ加わった。全部追悼の日だ。

と西武沿線の自宅まで弔問に伺った。娘さんの結納の直前だったが、その婚約が沙汰止みになったと聞いた。覚えているのはこれくらいで、ふだんは忘れている。

 帰宅して着替えしながら眼をやったテレビの画面は犠牲者の名前を流していた。同期入社の友人の名もそこにあったはずだ。大阪で単身赴任の彼が遭難したと知ったのは、その後の新聞であったかもしれない。しばらくして同僚たち


柳田邦夫『マッハの恐怖』(1986年)を読んでいなかったので、先ごろ読み始めた。図書館にあった柳田責任編集『同時代ノンフィクション選集第9巻 技術社会の影』(1992年 文藝春秋)で読んだ。四日市・水俣の公害と航空機事故が2篇入っている。「マッハの恐怖」と墜落の夏―日航123便事故全記録(吉岡忍)だ。

私はこの吉岡氏の作品で大事故の有様をあらためて知った、というより学習した。「遺体」で一つの章を立てている。1キロ四方に及ぶ墜落現場には人体の形をした遺体がほとんどなかった。収容だけでなく検屍、身元特定などの手続きが想像以上に難航した。作家にとって書くべき物語が無数に生じた。後に情報開示請求訴訟の原告になる吉備素子氏は乗客であった夫の遺体が発見されなかった。彼女は最後まで諦めず、すでに腐敗していた多数の肉片骨片などを一つひとつ検め、ついに右足の一部を、子供の遺体に仕分けされていた箱の中から見出したのだった。

多くの遺体が異常な有様であったことを初めて知った。亡友は、はたしてどのような状態で棺に収められたのだろう。今更ながら自分の迂闊さ・想像力の欠如を反省した。事故の当事者であった日本航空は棺を520用意していたらしい。私も日本航空会社も事故に対する感覚は、常識的で所詮通念でしかなかったということだろう。だから、このたび往年の航空事故の記録を読み、関連事項をインターネットなどで自分なりに探索して、38年も経た今もなお裁判が僅かな人たちによって密やかに、しかし公然と続いている事実に驚いたのである。

そもそもあれだけの大事故なのに一度も裁判が行われてはいない。日本航空(半官半民)もボーイング社も運輸省(当時)の責任者たちについても刑事訴訟は全部不起訴であった。損害賠償請求の民事裁判はすべて和解で終わっている。事故はどうして起こったのか、モヤモヤ気分のままに過ぎている。

政府の事故調査報告書には、圧力隔壁が過去の損傷修理の不適切により経年疲労をきたした結果破裂したことが尾部破壊に至ったとしている。平米あたり6トンの圧力がかかる隔壁が破壊して生じる客席の急減圧に人は耐えられないはずが、後部座席の4人が生存しているのだ。垂直尾翼喪失に至る可能性が疑われる原因は他にあるべきだ。

インターネットに、アメリカの大衆科学雑誌『ポピュラー・メカニックズ』の「最悪の墜落事故、JAL123」という記事がある。ことし、2023622日の日付がついている。また、85日の日付で雑誌『エスクァイア』も同じ記者アンドリュー・ザレスキによる同様の記事を載せている。38年前の日本の事故がなぜ今頃米国で記事になっているのか。

読んでみると、半世紀飛び続けたB747(ジャンボ)がこの1月に1547番機をもって製造が終わり貨物航空会社に引き渡されたことが報告されている。JAL123便では、最悪の事故となったが、B747は非常に優れた航空機であることを伝えている。ボーイング社は事故原因を、7年前の大阪空港での「尻もち事故」によって損傷した圧力隔壁の修理ミスが引き起こしたと認めることで、事故機を全世界を飛んでいる600機の747全体から切り離して、ボーイング社の信頼性を維持したのだった。旅客運送部門では燃料負担が大きくなって今後就航しないことになったけれども、貨物運送では操縦席下部の開口部の特徴が他に代えられないことで2050年まで飛び続けるだろうと書く。B747への信頼度は高く、アメリカの大統領専用機エア・フォース・ワンなのだ。

記事はその一方で、ひとりの英国人女性遺族の口を借りて、このJAL123便事故の真因が極められていないことを訴えている。相模湾からの尾部残骸引き揚げをしない日本の事故対応が不十分なことを衝いているのだ。

青山透子氏の『墜落の波紋、そして法定へ』(2019年河出書房新社)は事故経緯追求の過程を記した書物である。事件は日本政府の公文書管理に詳しい三宅弘弁護士の無償協力を得て裁判が進められている。青山氏は日米公文書の博捜からはじめ、墜落現場や目撃の記録、事故調査記録などの精査によって数々の疑惑を拾い出した。私が読んだ限りでの極め付きは、外部からの飛来物によって垂直尾翼が破壊されたとの疑惑である。このことにより、事故が事件に変わった。

ときの総理中曽根康弘にアメリカ大統領レーガンが事故2日後の814日付で見舞い状を寄せている。外務省官僚はその一連の文書に日本語メモで墜落事件と書いている。用語遣いに厳格な官僚が当初からすでに事故と言わない。

中曽根回顧録を調べた青山氏は、「米軍がレーダーで監視していたから当然事故については知っていた。あのときは官邸から米軍に連絡は取らなかった。」「私が合図するまで公式発表はならぬ」などの中曽根発言を確認している。当時は自衛隊は日本政府を介さずに米軍と直接連絡を取り合う関係にあった。

フライトレコーダーによって尾部に外的衝撃のあったことが読み取れ、その原因は自衛隊が開発中であったミサイルの模擬弾が命中によることが考えられる。

異常外力着力点と称されている尾翼の箇所が事故報告書に図示されていながら説明がない。模擬弾には炸薬は充填されていないから爆発はしない。その箇所から尾翼の破壊が生じたと想定されるが、その物理的経緯は現物に当たるほか究められない。その残骸は相模湾の海中に沈んでいる。相模湾に浮かぶ破片を拾い集めたのが、上空で「ドーン」という音がした時間に海上で公試中であった護衛艦「まつゆき」だった。「まつゆき」について公文書を請求すると不存在との回答が来た。尾部の主要部は手つかずで今もなお海中にある。深さ160メートルの海底にある残骸は、費用をかけるほどのものでないとして引き揚げ要求に応じない。事故調査委員会を体調不良で辞任した八田委員長に代わった武田俊氏は、沈んだ残骸を引き揚げよと遺族に詰め寄られたとき、思わず「引き揚げて余計なものが見つかったら困る」と言った。おかしなエピソードが残ったものだ。

フライトレコーダーには、11トンの前方への圧力が加わったことがデータに遺されている。「ボーン」という大音響がした時刻だ。機長が発した「スコーク77」(注:SOSの信号)の時刻と重なる。その部分はレコーダー公開に当たって隠されている。

事故報告書は、事故原因が隔壁破壊にあると結論している。しかし、初期の事故調査委員会による現場検証では「隔壁はほぼ完全な姿で発見された」とあった。何かがおかしい。奇跡のように生き残った4名は後部座席で発見された。隔壁破壊で客席の圧力が急激に低下したのなら、生存した落合由美さんの話とは整合しない。圧力低下は僅かであったはずだ。吉岡氏の作品を読んでいると、このあたりには感じられる何かが漂うから不思議だ。吉岡氏の作品は最近絶版になったようだが気の毒である。

墜落現場で救援隊到着が異常に遅かった一夜の間に、自衛隊は圧力隔壁の残骸を電動のこぎりで裁断してしまったという。せっかくの証拠品をなぜ早々と廃棄したのか。公刊された書物の他にもなにかと問題がありそうだし、最近でも元自衛隊員などが当時を語る記事を見ることもある。

青山氏がこの事故の秘密を打破する方策は情報開示請求にあると思い定めた結果の裁判がいま進行している。インターネットには、すでに控訴審の一審、二審とも棄却されたことが載っている。

先行きに暗雲漂う機運も感じられて、この国のあり方に一層の不満が募る。

参考: https://bit.ly/2w2TvlU 森永卓郎氏の記事

読んだ本:柳田邦夫「マッハの恐怖」*

               吉岡忍「墜落の夏―日航123便事故全記録*

      *2点は『同時代ノンフィクション選集第9巻 』所収(1992年 文藝春秋)

     青山透子『圧力隔壁説をくつがえす』(河出書房新社 2020

      同  『JAL裁判 日航123便墜落事件』(同 2022

      同  『墜落の波紋 そして法廷へ』(同 電子本 2022

     堀越豊裕『日航機123便墜落 最後の証言』(平凡社 電子本2018

インターネット:『Popular Mechanics』The Worst Airplane Crash Ever, by Andrew Zaleski ,          Jun. 22, 2023

        https://www.popularmechanics.com/flight/airlines/a43945732/jal-123-plane-crash/

      『エスクヮイヤ』「JAL123便墜落事故の原因」2023/08/05

 https://www.esquire.com/jp/news/a44500136/jal-123-plane-crash/Popular Mechanics の抄訳)

(2023/11



 

2023年10月2日月曜日

読後感想  辻原登『村の名前』

 辻原登については前回当ブログの『闇の奥』(2010年)


のほかいくつか読んでいるが、芥川賞を受けたのは一体どんな作品だろうかというのが本作に近づいた契機だった。「文學界」19906月号に発表され、同年第103回芥川賞を受賞している。この作品も現実と幻想のあわいをゆく物語でありながら読者をうまく案内する手腕はさすがであると感じた。舞台を中国奥地に設定して桃源郷が出てきたのでまたかという感じではあったが、こちらの方が初出であり、『闇の奥』のほうが二番煎じである。

日本商社の青年社員橘が畳表をつくる藺草(いぐさ)を求めて中年のビルマ戦線経験者である畳販売業者とともに中国奥地に向かうとの設定である。

行きつく先は奥地の桃源県桃花源村と出ているが、現実の地図で湖南省に実在する。香港経由で広州まで1日半、その後予定した空路が故障で列車に変えて17時間、更に奥地目指してトヨタのヴァンで目的地に着くという強行行程だ。ネットで目的地を探っているうち桃源郷のモデル『湖南省桃花源村』が私の故郷です」という投稿が出てきた。地図で見た通り湖南省常徳市の郊外、現在でも上海経由で飛行機乗り継ぎとバス5時間で1日半かかると書いている。桃源郷というのは陶淵明の創作詩『桃花源記』がもとになっているが、常徳市の他にも桃源郷の名を持つ地名が別の省にもいくつかあるらしい。繰り返すが、『村の名前』は常徳市郊外の桃花源村に題材をとっている。現在の桃花源村は豪華な観光地になっている模様で写真も多いから、小説の読者はとりあえず現実地域の探索はよして、作品に没頭して主人公たちの旅程と気候の苦難を味わうことが肝心である。その後で現在の現地状況を知ってみると作者が文章の裏に秘めた事情が透けて見えるような気がする。

貧しい村に踏み込むと終始あとをつけてきている公安がすかさず立ち入り禁止を申し渡す。夜間に宿泊所で騒ぎが起きたのは殺人事件で、パトカーが来たと思ったのは県の公安だと教えられる。これらのことの裏には常に中央政府の圧力が一部人民にかかっている事情が読み取れる。現在わかりやすいモデルはウィグル自治区を考えればいいだろう。似たようなことが桃花源村で起こっていて、作者は上手に幻想ででもあるかのように書き記していると筆者は類推した。

作品の中で論理的に無理があるかのように見える箇所は、いつのまにか相手との言葉の壁がなくなっている場面であろう。これは遂に近づき得て親しく話を交わせるようになった相手との場合に起きる状況だ。チョムスキーの唱えるように自然文法がなせる状況だと思えば不思議ではなくなる。まして主人公はカタコトの中国語が話せて、一方広大な中国奥地では様々な中国語が交わされている状況があるから、同じ中国人の間でも話し言葉が通じないのは日常的である。

物語の終わりに向けて強引な妥協案が持ち出される。日中ホテル建設協議書にサインを迫られる。藺草の件は任せろと言わんばかりだ。ここでサインをしなければ無事に帰国できる保証はないという状況に追い込まれる。ここで読者は、というより筆者は現在のインターネット上の旅行案内に豪華なホテルが多数紹介されている状況に思い当たるのだ。ついで持ち出された藺草契約書に橘青年は辛うじて、製品見本照合の上、との一項を書き加えて署名した。翌朝エンジン音がして迎えの車が到着するところで物語は終わる。

本作の執筆当時、中国や桃花源村の状況についてどれだけ作者が知っていたものか全くわからないが、後に『翔べ麒麟』など題材を中国にとった作品などがある作者には、それなりの情報があったと考えてよかろう。一方、芥川賞選評の中にはこういう裏事情に関することは一切見られない。評者や編集者の中には知っていても表面には出さない慎重さがあったのかもしれない。筆者は大逆事件に題材をとった『許されざる者』で作者の思想傾向を知り得ていたため、作品中の端々からここに記したような作品背景を勝手に想像したまでである。結論として本作は芥川賞にふさわしい出来栄えであるとされたことに異論はない。

この度本作を読んだ電子本には『村の名前』のもとに『犬かけて』という別の作品が併載されているが、筆者の興味が今ひとつなので感想は記さない。

読んだ本:文春ウェブ文庫版『村の名前』2002年     (2023/10)






 

2023年9月2日土曜日

徒然の読書は記憶力の確認になった――辻原登『闇の奥』(2013年)

たまには娯楽的な本を読もうかと思っているところに、ふと作家辻原登さんを思い出した。

あの作品は面白かったなぁと思い返すが、なんでも京都の池の底の地底を走り回るという奇天烈な話だった。題名を忘れている。

ネットで探るとすぐ出てきた。『花はさくら木』2006年、大佛次郎賞の受賞が読むきっかけだった。

『許されざる者』2012年も読んだ。関心を持っていた大逆事件が背景にあった。結末に希望を感じさせたのが印象的だった。

どれもが私と相性が良かった。で、今回は『闇の奥』だ。

昨年終活の一環と考えて早手回しに本棚をカラッポにしてしまったので、紙の本はもう買わないようにしている。図書館に行きたいけれど、この夏は格別に暑いし、だいいちこの年寄りはもう足元がおぼつかない。次善の策は電子本になる。

何をするにもからだの老化現象に苛まれて、ことの運びが悪い。こまごました日常の暮らしの合間の読書となるが、記憶力の衰えが二度三度と同じ動作を促す。

新しいことほど覚えが悪いのが老年の特徴だそうだが、読んだ内容を切れ端で覚えているだけで述べられた事態の繋がりが悪い。今読んだことを話してみろと言われても、口が開けないほどもどかしい。これは発すべき言葉を脳が探しあぐねているのだ。

要所要所をメモしておいて、後でそれを見ながら読んだ内容を反芻してみることで一応納得するという始末である。いちいちこんなことをしていては、折角の作品が楽しめないから、フツウの人のように読み進めて楽しんではいるが、終わってから、頭の中がごちゃごちゃになっていることを実感する。

特に今回の読み物は脳の中の整理状態をあらためるのに向いている。

『闇の奥』という表題はジョセフ・コンラッドの小説の日本語版の表題と同じであるが、その原題はHeart of Darkness」である。この場合の「闇」はアフリカのコンゴの密林の奥で何が行われているのか不明というのが一つの意味であろうが、人物の足跡を尋ねて密林の奥深くに分け入る行動と不安ということでは辻原作品と共通する。

辻原版『闇の奥』は、当初『文學界』で7回に分けて、それぞれ現在の各章の題名で発表されたのを、合わせて単行本化された。そのときに本書の表題がつけられたと推定するが、それほど深い意味はないと思う。

辻原氏は末尾に参照作品を掲げている。その筆頭に挙げられている『東南 亜 細 亜 民族学 先史学 研究』は、1946年の出版である。この著者鹿野忠雄(かの ただお)こそ『闇の奥』で作者が三上隆と名付けて捜索対象にした人物のモデルである。蝶の採集や民族学の研究に打ち込んだ人。

辻原氏は和歌山県日高郡印南町(いなみ ちょう)生まれ、本名は村上博、父上は村上六三(ろくぞう)、日本社会党和歌山県議、1971年没。『闇の奥』には、父の村上三六(さぶろう)の遺品から、三上関連の情報を発見する息子村上が登場する。六三さんと三六さん、氏は茶目っ気の多い人だ。

今この文を書いている筆者も和歌山の人間の末裔であるので、大塔山系やら熊野やら、筆者が少年の頃馴染んだ和歌山市の地名や交通、戦後の産業の衰退ぶり、果てはカレー事件まで登場する本作はそれだけで懐かしく、その分一層楽しませてもらった。

先に書いたように、語られた作品をなぞるのにメモを取ったり苦心しているが、辻原氏は東京大学の講義で要約を作ることを教えているという。そういえば60歳過ぎての大学院でレジュメ作りを課されて筆者は大いに苦手にしたものであったが、いま『闇の奥』で読後の反芻にまごつくのもあながち老化のせいだけではないかもしれない、私には早とちりの癖があるのだと、妙に安心もしている。

辻原教授に従いて『闇の奥』の要約作りをしてみようと思いついた矢先、何気なく読み返し始めた章、「沈黙交易」の書き出しはまさにそれまでの物語の経緯の要約であった。労役の半分が助かった。

作者は三上隆とミカミタカシを区別して書いている。ミカミは幻想かもしれない。ラマ教のマニ車の秘儀によって一瞬にしてチベットから熊野の奥まで運ばれてきたミカミ。これはファンタジーだと作者が書いている。

ミカミはボルネオから長途を旅して中国奥地の麗江を訪ね、実在の探検家ジョセフ・ロックに会っている。ロックに矮人族のことを聞くとキングドン・ウォードの著書を教えてくれた。それが本書末尾の参照文書にある旅行記『 The Riddle of the Tsangpo Gorges』、 日本語 訳『 ツアンポー 峡谷 の 謎』( 金子 民 雄 訳)2000年 である。

はじめの章の喫茶店で、出水が稲葉と津金を小人(コビト)の部落探しに誘い出す。その結末は洞穴の奥で老人が手招きしているところで終わっていた。村上の父のテープの中で、「沈黙交易」の小人部落で出逢ったミカミは「彼ら小人の言葉を守れ、さもないと・・・」と警告する。作者はここに「不足為外人道也」と陶淵明『桃花源記』のくだりを紹介して、その意味は他言無用であると読者に教える。

だが、3人は掟を破った。3人とも死んだ。最後の出水はカレー事件で。小人は普通の人の社会に紛れ込み人知れず害をなす。カレー事件とは…、うまく結びつけたものだ。作者の遊び心と言ってしまっては事件の被害者に申し訳ないが。その上告棄却判決の日、息子はチベット行きを覚悟した。

続きは最終章を読んでのお楽しみだ。

作者辻原登さんは非常に広い範囲に興味をお持ちで、それを自在に作品に活用する。本作も例外ではない。ただ本作は全体の構成に無理が残っている感じがする。はじめはシリーズでの連作を意図されたのかもしれない。のちに発表された作品を一つにまとめることになって、やや齟齬が生じた。整理が十分できなかった。切り落とす部分とその分量を補って書き足す部分が必要だったように思える。娯楽性は十分だ。もともと材料が多すぎたのかもしれない。多分お忙しくなったのだろう。(2023/8)


2023年6月23日金曜日

年寄りにはパソコンがいい(その2)――アルバム整理と時の変遷

 紙焼き写真を収めたアルバムが傷んできたので、画像の保存とちょっと見たい時の参照手段を変えることにして、まずひとわたり眺めることをしている。

 取り上げたのは昭和561981)年10月撮影のヤマト、いわゆる「山の辺の道」近辺の写真だ。パソコンもインターネットもない頃で、道路地図だけで走り回っていた。撮影地点をインターネットに当たると、新しい風景や建物を中心に情報満載である。

パソコンもこの20年ほどの間に機器もソフトもすっかり新しくなっている。選択編集した画像をA4のクリア・ファイルに入れ、保存データは一旦ファイルに収めてから、まとめてハードディスクや光学ディスクに入れる方針にした。

 この文章はフリーソフトのLibreoffice writerを使っている。Wordとの使い勝手の比較のためだ。

作業は、元の紙焼き写真を複合機でスキャンして、エクセルで準備した方眼台紙に貼り付ける。編集は褪色補正とトリミング程度ならスキャニングと一緒にできる。スキャンが終わったあとデータを保存する場所の決め方には慎重さが要る。パソコンのファイル・ツリーが意図しない間に複雑になっている。ファイルの場所までの道筋ルートを強く意識しておかないと、データ探しに時間がとられる。弱った頭脳は機械の思うままに引きづられる傾向があるから要注意だが、すでに遅しであった。

さて、元のアルバムには撮影日付と場所がメモしてあるが、対象の説明はない。案内図などなしに飛び出してゆくので、道標を見つけて、あ、ここが「山の辺の道」かという調子だから由緒起源など説明は全部後付になる。現在のネットに教わって説明を加えると、写真の内容とは40年あまりの時間差がある。撮影時になかったものが今あるし、あったものがなくなっているということが当然起きる。これはこれで勉強になってよろしい。

三輪山平等寺という寺院がある。なかなか立派なお寺だ。それが当時の撮影では山門だけ写っている。

それも正面ではなく斜め手前からで、やがては朽ちるかとでもいう風情だ。何ゆえこの角度からだったのだろうと不審である。この場所については撮影時の記憶はまったくない。これがほかの、例えば檜原神社から二上山を望むとか、崇神天皇陵とかなら現場での印象を思い出すことができる。

こういうわけで、作り直すアルバムは簡易なものではあるが、体裁としてはそれなりの説明をつけておきたい。そうすれば、誰でもがまた見直して楽しむことができる。ということになって、これはこれでけっこう時間のいる作業になりそうだ。脳によく効く作業のひとつ。

[参考]平等寺については桜井市による紹介:https://byodoji.org/ がよく分かるし、きれいだ。 

山の辺の道は記紀に[山邊道]と表記されている。たとえば、古事記には崇神天皇について「御陵在 山邊道 勾之岡上也」とある。山邊道 と彫った石の道標は小林秀雄氏の筆跡だ。署名も彫られているから本物だろうが、つくられたことの経緯の説明がどこにもない。単に観光機運の盛り上げに協力したということだろうか。評論家も商売ではあるが。

さて、山の辺の道は日本最古の道と言われ、ヤマト政権の官道でもあった。

東の山裾を縫うように南北に通る初めの道は、西側は湖であったことを物語っている。南北に縦貫する上ツ道、中ツ道、下ツ道は水が引くにつれて順につくられたようで7世紀半ばには三道ともに存在したようだ。

左図はウイキペディアに拝借した。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E3%81%AE%E5%8F%A4%E9%81%93 )

 山の辺の道の南端、始点というべきか、は海石榴市である。「つばいち」と読み、物資の集散地の市(いち)であり、八方に道がつながる衢(ちまた)であった。推古天皇の16年(西暦608年ごろ)の条、「唐の客を海石榴市の衢に迎ふ」とあるのは、随の使者裴世清を迎えたことの記録である。難波津で川舟に乗り換えた使者は大和川を遡ってここに到着し、陸路を都へ赴いたという筋書きになる。それにしても、ここまで船で来られたとは、いまでは想像がつかない。現地に立ってみても、記念碑や標識だけでは昔を偲ぶ手がかりがなくて面白みがない。山の辺の道の楽しみは、お宮とお寺と石仏あっての風景だろう。

話を戻して、三輪のあたりを撮った写真には三輪山を写したのが何枚もある。何しろ御神体がお山だという変わった神様に惹かれてあちらこちらから撮してある。面白くはないが、これはひとに見せるためではなく、そのときどきの自分の気持ちを思い返すためだ。

長岳寺というのがある。弘法大師の開基という。石を彫った風情のあるお不動さんや古墳の石棺の蓋に刻まれたという弥勒菩薩がある。

三輪といえば素麺の代名詞みたいなものだが、写真を見ているうちに、長岳寺で「にゅうめん」を食べたのを思い出した。夏は冷たい「そうめん」を食べさせてもらえる、といってもお寺の営業だ。ネットには今どきの人の撮影らしく、頂く前のワンショットがいくつもあった。40年あまり休まず営業しているわけだ。嬉しいね。食べログにもあるのは俗化し過ぎだが。いまお休みしてます、とお寺の注意書きもあった。コロナのせいだろう。

話が前後するが、ネット上にあった山の辺の道を写真と文で案内する記事の中に、湖のきわを歩いた道だから標高5060メートルのあたりだというのがあった。パソコンで標高を知るには、国土地理院のサイトがいちばん的確だと思う。地理院地図で見ると崇神稜あたりで100メートル、柳本駅で70メートルほどと出ている。先の記事が誤りだと指摘するつもりはないけれども、標高とか、海抜とか、あるいは水面の高さ、水深の値などと考えを巡らせていると、錯覚に陥りやすいことを知った。

長 岳寺とその道筋には石仏が多い。寺に所属する作品にはネット上に種々説明がされていてありがたい。けれども路傍に小さな石仏が多いのもこのあたりの特徴だろう。明らかに庶民の作品だろうし、作者や由縁の手がかりもない。いつ頃どんな人たちが…など一切わからないけれども、兎にも角にも何かが伝わってきそうな気配があって気持ちが動かされる。楽しむだけではいけないかも知れないが、また会いに行きた
くなったりして。

のんきな話ばかりではない。大和川の舟運などを調べているうちに生駒山系と葛城山系の間にある渓谷、亀ヶ瀬の存在を知った。恥ずかしながら長らく関西には馴染んでいたはずが、この歳になるまで知らなかった。昔から大量の地滑りがあってそのために河床が盛り上がったり、大岩が流れを妨げていた。ヤマトと河内を結ぶ大動脈と言われるようになるには昔から大土木工事が繰り返されている。昭和以降は国の事業でついに地滑りは止まった(今のところだけかも)。日本遺産に登録されて文化庁のポータルサイトがある。こんなところを随の使者が?という疑問も起きる。研究者・学者さんの議論もネットにある。こんなふうに40年の今昔を行ったり来たりしながら過ごしているが、また楽しからずやである。22インチ画面をつけて、パソコンは良い伴侶であります。(2023/6)



2023年4月4日火曜日

日々の卆論―生物学

 90歳になった。賀寿で言えば卒寿である。卒の漢字は卆とも書くので90を表す文字に使われる。日常、格別他にするべきこともないので、読んだり書いたりして過ごしている。というわけで今回のお題は「日々の卆論」とした。

昨年は本を読む時の関心が物理学から脳に移り生物学になってきた。どれをとっても知識がないのに無謀なことであるが、わかってもわからなくても面白く感じていた。ところが中でも生物学になると自分の守備範囲に大穴が開いていることがよくわかった。勉強の科目で言うと化学だ。半世紀も前に生物学はカエルやトンボ相手ではなく分子生物学と遺伝子の世界に変わっていたのだ。 

早期退職を思いついた頃ワープロやms-dosがあらわれた。その流れで今はもっぱらPCだ。必須の勉強道具になっている。アウトプットとインプット両方に重宝している。用語も論文も調べられるが、生物学に興が乗って広がりすぎた。細胞の中でアミノ酸がはたらいてエネルギーを作り出す、その工程は物理学だがアミノ酸がエネルギーになるのは生化学だ。話だけでも驚きであるが、モーターがあって回転するのを目で確かめた研究が語られる時代になっている。面白いがやはり基礎知識と用語知識が必須であると思い直した。

新聞の「売れてる本」のコラムに小林武彦『生物はなぜ死ぬのか』(①)の評が載っていた。人の死はプログラムされている、生き物は次の世代のために死ぬ、難易度は高校の復習程度などとあった。それならと実際に読んでみると、「高校程度」の程度の物差しが自分とは大違いであった。それに自分の関心事も生死のことはすでに通り過ぎている。この本に限らず、わからない用語などをインターネットで自習していると、わが関心事は物質でできているはずの人間が生きているとはヘンではないか、そもそも地球の始まりは無機質の世界だったはずが、なぜ生物が湧いてきたのだ、これもヘンだ、という具合に疑問が次々に出てくる。

『Whai is life?、生命とは何か』ポール・ナース著(②)がよさそうと考えて、読み始めると疑問が解けそうに思える。それでもやはり一般読者用に書かれているから、学界でまだ仮説の段階にある事柄については避けているようだ。でもこれなら面白い。

さて、生命とはなんぞや、自分なりに考えついたことは、それが機能であることだ。生き物には器官があり、組織があり、細胞がある。細胞のシステムがはたらいてくれるから私たちは生きているわけだ。そういう細胞の働きを生命と呼んでいる。このように考えついて②を開くと、話は細胞から始まっていた。

①の本は望遠鏡の話から始まっている。口径30メートルの望遠鏡で138億光年の昔を覗こうというTMT計画だ。何が見えるのかは別として、距離を克服する技術である。②の本は肉眼では見えない微細なものを見る技術の発達による発見を語る。光学の発達は素晴らしい、だけど光は何だかよくわからない。

細胞は小さなものとの思い込みは、鶏卵の黄身も一個の細胞だと教わってヘェと吹っ飛んだ。細胞はあらゆる生命体の構造単位であり、生命の機能単位でもある。1839年『細胞説』が出てきた。あらゆる生命体は細胞でできている。そしてすべての細胞は細胞から生まれる。これは細胞分裂のことだ。

細胞は脂質でできた細胞膜に包まれている。その細胞の中にも膜がある。大きいのは「細胞小器官」で、ほかにそれぞれ別個に膜に囲まれている。そのうち「核」は染色体に記された遺伝命令を含む細胞の指令センターだそうだ。「ミトコンドリア」はミニチュアの発電所で、細胞が増殖し生き延びるためのエネルギーを供給している。心臓の筋肉の一つひとつの細胞に何千ものミトコンドリアが必要だそうだ。需要量に応じるためには供給装置の規模があまりにも小さいため数が要る。「膜」はただの仕切りではない。その内外でイオンの電位差ができるそうだ。電位差という用語から物理学的な見当がついた。細胞内には他にも様々の器官や区画があって高度な生産・物流機能を果たしている。

今年の宮中講書始の儀では脳神経細胞内の物流機能が講じられていた。テレビニュースが報じた画面では両陛下の手元には刷り物があったが、参列者には配られていなかった。きらびやかに並んだお姫様方にはミクロの世界の不思議は伝わったのだろうか。誰かが居眠りをするだろうと期待して画面を眺めていた。

ミトコンドリアの内部で行われているエネルギー源の産出工程を推測したのはイギリスのピーター・ミッチェルだ。「変人化学者の推測」という小見出しでポール・ナースはあらましを説明してくれる。1978年のノーベル化学賞を受けている。受賞理由は「ATP合成のメカニズム発見により」とWikipediaにあるが、ミッチェルが「化学浸透圧説」をNature誌に発表した1961年には誰もが信用しない珍奇な推測だった。ミトコンドリア内膜を介して生じる水素イオンの電位差勾配を利用するATP合成過程が年を追ってようやく理解されるようになり、さらに日本の研究者が産出装置と観測技術を開発して分子モーターが回転する実証実験に成功した。その2年後の受賞だった。吉田賢右(よしだまさすけ)東京工大名誉教授はこの受賞に貢献できたと語っている。『生命誌』サイトの同氏談話や野地博行氏の記事は研究と実験がよく分かる。

https://brh.co.jp/s_library/interview/67/

https://www.brh.co.jp/publication/journal/043/research_11

②の本は発行元がうたう著名人の推奨が派手であるが、良い読み物であると思う。訳文が若年層を狙ってかあえてくだけた風になってるのが、かえって文意をそらしかねない気もするが言葉に難しさはない。編集ミスによる誤記を見つけた。「人の30億個ともいわれる細胞すべてに、最低ひとつは微生物が棲んでいる」とあるが、「30兆個」の誤りであろう(電子本で読んだのでページ数が指摘できない)。

基礎を学ぶつもりでNHK高校講座「生物基礎」を利用することにした。手始めに第3回「生命活動を支える代謝」を動画で見てみる。講師(東大教授 高橋紳一郎)の説明がスルスルと頭に入る、これは実感である。伝え方が上手だ。言葉もよく分かる。これはやらずばなるまいという気になった。

ちなみに同じ動画でもYoutubeの講座トライがある。もっぱら受験対策のようだが、この動画に付帯する字幕は機械変換だろうか誤変換が多い。まことにお粗末だ。NHKのほうはさすがと思わせる。

話が前後するが、『What is life?』の著者ポール・ナース氏も、2001年にリーランド・ハートウェル、ティモシー・ハントとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。wikipediaには、「分裂酵母を材料にして細胞周期に欠損をもつ変異株の分離を手がけ、cdc2と呼ばれる遺伝子が細胞周期の主要な制御因子であることを見いだした。cdc2がコードするプロテインキナーゼは、サイクリンと複合体を形成して、細胞周期の進行を司ることが判明」、この業績による受賞と説明がある。②にも細胞周期とcdc2について発見の経緯を述べているが受賞には触れていない。訳者があとがきで著者はノーベル賞受賞者であると明かしている。

書評によると、この本に図版が一切ないのは言葉を重んじる英国流だとあった。図版多用は米国流かも知れないがわかりやすくていいと思う。高校講座で、「ATPといっても白い粉です」と野地氏が写真を見せてくれ、更には同氏らが実験したF1モーターなどの模型図があって、機構がイメージしやすい利点が大きい。対象が目に見えない物だけに効果絶大だと思う。

筋肉細胞が収縮するメカニズムに関しては日米の研究者間で論争が続いている。二つの蛋白質繊維、ミオシンフィラメントとアクチンフィラメントの間で生じる滑り運動が筋繊維の短縮をもたらすことまでは判明していて争いはないが、アクチンを動かすミオシン頭部が、一方は機械部品のように固定されているとするに対して、他方は柔軟なブラウン運動をしてその都度都合の良い方に動くとする考えである。後者が日本の研究者で、考え方の基礎に自然物の動きにブラウン運動的なことは往々見出されるとの観念も含まれているように思える。対するアメリカ、スタンフォード大学はメカニズムにそれはふさわしくないとの前提観念があるらしい。日本チームはすでに実験装置と観察機器を開発済みで、この微妙な物質の動きの現実を見せながら説明中であるようだ。「百聞は一見にしかず」、人は見ることで信用する。

すでに本になり教科書に説明が載るような事柄であっても、なお細かい点では未解明であり得るし、気づいていないこともたくさんあるのだろうと想像できる。だからどこにも書いてないことが研究対象であることも多いし、当方の素人疑問の説明がなかったりもする。学校の頃になかった学問の種を今頃拾い歩きするような日々の勉強、といえば多少かっこいいいかも知れないが、分裂症の予備軍かもしれない。適当に時間をつぶしていればそのうち自然に人生が終わるだろう。

推奨できる読み物:生命誌研究館 サイエンティスト・ライブラリ https://brh.co.jp/s_library/interview/ 

(2023/4)