ノミノスクネとタイマノケハヤという人が相撲を取ったのが、今の相撲競技の始まりだということは子供のころに知った。
近頃、保田与重郎の「長谷寺」を読んでいると、野見宿禰という名がでてきた。
「長谷寺」は日本人の歴史を故地にかかる信仰を通じて探る論考であるが、日本の歴史発祥の地の地誌でもある。叙述は昭和39年(1964年)当時の事物に沿ってなされていて、採り上げられる神社ほか何事につけ由緒深いものばかりである。保田氏は大和桜井が故郷であり、その奥地初瀬は日本誕生の土地につながっている。
さて、「長谷寺」の記述には、垂仁天皇の御代の7年7月7日、大兵主(だいひょうず)神社の神域内で、出雲の野見の宿禰と當麻の蹶速(くゑはや)が相撲をして宿禰が勝ち、蹶速の當麻の領地を與えられた。これが節会相撲の嚆矢とされ、この大兵主神社が國技發祥の地といわれる所以であると述べられてある。
保田氏の記述は、野見の宿禰は土地の人であって遠く出雲の国の人でないというのが他と違っている。氏によれば、出雲というのは初瀬町の入口の部落として今も残っているのだそうだ。「宿禰の記事に出雲国とある国は、書写する人が知らずに考えて、脱字と思って入れた国だろうか」と、疑問視している。書写とあるのは記紀などを参照したことを意味する。
ならば、出雲とは遥か出雲の国ではなく、逸話は天皇の足元の土地の人同士の力比べの話になり、當麻の蹶速の力自慢に対抗できるものはいないのかという天皇の問いに地元の人間がそれなら野見の宿禰がいるよと応えた、極めて自然の成り行きに思える。
保田はつづけて、「出雲の野見の宿禰を迎える使者が、大倭國魂の大和神社の祭主長尾市(ながおち)であった。大国魂の神の司が、出雲の英雄を迎えにゆくのである」とおもしろそうに書いている。うまくできた話だと皮肉っているのだろう。
今の初瀬の町の西の出雲の部落が本来出雲で、宿禰の出身地でなかろうかというのは私の見解でないと保田は念を押して、三浦義一さんもそう考えたと書く。三浦さんとは、国技精神の顕揚に熱心に取り組んでいる人だとし、歌の作者として第一流の人だという。そして、泊瀬の国と稱えた以前、この山あいの奥地が出雲と総称されたと考えることも、のちになって、泊瀬の語意を終瀬と考えねばならないような事実にあった時に、一層切実に回想される、と述べて次のような事情を紹介している。
昭和のはじめ、初瀬村の笠(かさ)という土地に上代庶民の集団火葬地の痕跡が発見された。このことから初瀬を終瀬の意とするのは墓地のことを指すのであろうと推考している。そういえば終は「はて」に充てる文字でもあるなとは筆者の私見であるが、まことにかな音だけによる日本語は変幻自在である。
この初瀬はまた終瀬でもあるとの保田の見解は、「生命の根源である日と月が、朝と夕に、雄々しくなまめかしく昇ってくる谷あいと見た事実とともに、そこをまたいのちのつひのすみかとして考へたことは、わが本有信仰の発想にかなうものである」と日本人の信仰についての自説の根拠を示している。本有とは生まれながらにもっている」という意味であるから、日本人なら誰でも持っている信仰のありかた
の大元がこの土地の形にあることを述べているのである。
筆者の私はこの保田氏の文章を楽しんで読んでいるが、ほかの文献によれば、野見の宿禰と當麻の蹶速の力比べの実態は取っ組み合いではなく、蹴りあいであり、宿禰が蹶速の肋骨を蹴り折り、腰骨を踏み砕いたことで蹶速が絶命して勝敗がついたと伝えられているのである。しかも、これが節会相撲の嚆矢であるとは呆れるほうが先に立つ。
また、民をいつくしむ立場の天皇が、民のちから比べが殺し合いに終わることを承知していたと考えることにも違和感を覚える。
けれども、この天皇がたまたま垂仁であったことは、さもあらんと複雑な気持ちになる。
相撲は即位7年のことであったが、『水鏡』には、4年のこととして、妃の兄が妃をそそのかして帝位を奪うたくらみを持っているのを知り、その兄を討つと同時に駆け付けた妃をも焼き殺してしまった事実が述べられてあるのだ。
わが故郷を日本の国のふるさとに重ね合わせる保田氏には明らめたくないことどもであったのかとも思う。
(2024/12)