「音幻論」 露伴 述 土橋利彦 筆記
単行本表紙陰影 近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126366 |
岩波書店の露伴全集第四十一巻 別冊に「音幻論」と題された日本語の音(おん)に関する一群の著作が集められており、序、目次、各論の順に構成されている。序の末尾に「昭和丙戌の歳」とあるから昭和21年(1946年)のことであるが、これは序文を書いた時を示すもので、内容の各編はそれぞれに異なった時期に雑誌に発表された。ここに収録された内容は昭和22年5月、単行本となって洗心書林から発行された。別稿「言語と文字の間の溝」(昭和十三年)が付録についた。
「序」の中で露伴は、焼失した小石川の旧書斎の硝子障子に、墨で将来の著書目録あるいは材料収集の目安書きのような言葉がしたためてあったが、その中に「音幻」という文字があり、それが遂にふつつかな形だが「音幻論」として出版されることになったと控えめに喜びをあらわしている。
音幻とは聞き慣れない言葉だが、露伴は次のように言う。「言語の変遷する所を掴みたいのが音幻論の生ずる所以で、言語が金石に彫刻したもののやうにその儘永存するものではないのは、恰も幻相が時々刻々に變化遷移するものである如く生きて動くものである。そこで音幻の二字を現出したのである」(「韵」)。[筆者注:韵は韻に同じ]
国語について、言語学その他で諸先輩が色々な優秀なる意見を披瀝してゐられたのと別に、それとは少しく異なった考を余は早くから有してゐて、いつかはこれを世に問ひたいと思ってゐたからであった。純粋に音の上から言語文章の大きな問題を生じることを意識してゐたので、いよいよ自分の思ふだけの材料が完全に得られた時は、直ちに切って放して、その仕事をやり遂げたいと思ってゐたが、さしあたり急なことでもないから、仕事にとりかかる時の有力なる材料として、零細的に書きしるして置いたノート類の外に、国語の排列の仕方に一種の考案を用ゐた、半紙本十冊にも餘る字引のようなものを、甥の四郎といふ者に託してつくって置いた。([序])
伊東にゐた頃、シとチの話をして土橋君に筆記して貰った。信州へ行ってからも、どうすることもできない體で、時々話したことをやはり同氏の筆記を以て「文藝」に與へた。終戦になって再び伊東へ頼り無い病軀を寘いた後、又その仕事を続けて、この音幻論は成立った。東京の住ひは灰燼に帰して、甥につくらせた字引も烟となってしまったので、徒らに筆記者の労苦を致したが、その結果に於て、半部以後のものは余の當初の考とは違って、萬事物足りなさを感じるけれども、どうにかこうにか一部をなしたのはこれである。音は幻である、といふ余の考は、たとへ不満足にせよ、これによって窺はれるものとして、人に示すことができたのである。(「序])露伴は昭和十九年には白内障で視力が格段になくなったが、持病の糖尿病のため手術ができない。また起き上がることの難しい身にもなってきた。一方で戦争は進み空襲が始まり、介抱されながら伊豆や信州に難を避けた。
「音幻論」各編は、戦中戦後を通じて不自由な身で場所を移しながら口述筆記で雑誌『三田文学』と『文藝』に寄稿されたが、資料を失ってしまったため、口述者、筆記者共に負った苦労は想像に余りある。雑誌も掲載年月をたどれば、「シとチ」「近似音」「本具音」「ン」「韵」「音の各論」前半までは戦時中の作業であり、「音の各論」後半、「累音」「對音」「省音」「添音」「倒音」「擬音」「音と言語」「聯音」は戦後の作業とみられる。浅学の筆者には露伴の記述そのものへの評価など到底おぼつかないが、日本語についての著者の愛着の片鱗でも味合うべくぽつりぽつりと読み継いでいる。
「音幻論」のすべての原稿の筆記者は土橋利彦氏である。同氏は甲鳥書房の編集者であったが早くから露伴の弟子になり、眼疾で書けなくなった露伴を見かねて自分が担当するとして口述筆記を申し出た。もとより露伴の該博な知識についていける程の力量でないことは自認していたが、露伴も承知でその好意と熱意に報い、土橋氏を鍛えながら口述による著作を進め、最後の著作「芭蕉七部集」も完成した。露伴没後の土橋氏は岩波書店の露伴全集の編纂に関わり、さらに伝記『幸田露伴』を世に出した。この間に自らも失明しながらの著述だったという。筆名塩谷賛。自らは決して伝記を書かなかった露伴だけに、常時身辺にあった同氏による伝記は貴重な記録とされている。
土橋氏が所属する書肆が「三田文学」を発行することになったため、露伴に原稿を依頼したことが契機となって「シとチ」の執筆が着手され、目の見えない露伴に導かれながら『大言海』と首っ引きで土橋氏は筆記したらしい。ここで土橋氏が学んだことは、露伴は知らないことを土橋氏に命じて大言海を引かせるのではなく、知っていることを引かせるということだったという。ちなみに雑誌が出てから僅かながらも稿料を持参すると、露伴はそれは土橋氏の調べ物に対する礼だとして押し返したという。こうして「音幻論」すべての稿料は土橋氏が受けとり、単行本の印税は出版元が倒れて不払いに近い結果に帰したというから、露伴の手元にはほとんど何も残らなかったことになった。
さて、「シとチ」は豊富な用例を挙げて、「シ」と「チ」がどちらの音も風を意味するということを明らかにした文章である。日本語が成り立ってきた経路から考えてどちらが正しいとか言えるものではない。日本語があって、五十音図の伝来があり、仮名遣いが論じられるようになった。仮名遣い以前の日本の言葉は風の場合で言えばシでもチでもない音かもしれないが、考えても詮無いことであろう。
元来言語は二元のものであって、発する人が一つ、聴く人が一つ、聴いた人が復現するときに至って、又、発した人が復聴するときに於いて言語は成り立つのである。それであるから言語といふものはそのもの一つで、すなはち発音者のみを以て論ずるのはむしろ滑稽なことであって、聴く人聴かせる人が一圏をなして初めて成立つものである。(中略)音韵の自然の流行の径路を遍く正しく観察することが何よりの努であらねばならぬ。
「音幻論」は、その意味で長年考へてゐたことであるが、その大綱を成就するに及ばないで已に私は耳も疎く、目も殆ど盲するに及んでゐる。それで今ただ、シとチだけのことを言って、その萬分の一の思考を遠慮しながら一例として述べたまでである。何も自分は言語の上に新古正邪の見を立てようとするのではない。ただ真の邦語がどういふものであったかを考へ知りたいと思ふばかりである。(昭和十九年八月 「シとチ」)アラシ、アナシなどの語彙を集め、用例として記紀万葉、祝詞、歌集など数多の資料が駆使されている。提出される言葉を追うだけでは面白くもない読み物であるが、その説明として挙げられる出典を見てゆくとき、生活に密着した言葉の実際を自ずから知ることができる。蒐集されているのは日本語の話し言葉であるから、そこから日本の文化がみえる。露伴は漢語の音韻にも通じ、また英語にも詳しいが、音幻論は全く日本語の音韻の変化、転訛などを仮名表記を使用して考究している。それは言葉は音で成り立っているという考えのもとに、論を立てるより先にまず実態を観察しようという姿勢に基づくのである。
各編に用いられている用語も珍しい名称になっている。露伴の漢字の使い方がわかる。たとえば、本具論。ある音が発せられる直前に発せられる幺微(ようび)の音を仮に本具と名づけたのだという。梅がウメとかムメとかになるのは、メを発する直前に出る音をメの上に書き足して表現したからだ。この直前に出る音をメに本来具わっている音と見立ててメの本具音といったわけだろう。だからウメとムメのどちらが正しいなどということに重きを置かない考え方だ。メを発音する際にはこのようになるということを知ることが大切だと説くのだと思われる。梅とか馬のシナ音が日本語に入って、やがて五十音図にしたがって仮名表記にしたとき、メとかマだけでは写しきれない音が感知されて困ったという歴史である。メやマの前に何やら空気が感じられて、それがウやムに聴こえたという当時の人々を想像するのも楽しい。
露伴は「ン」には別項を立てて、何と読むかわからないと嘆くのであるが、口を閉じて鼻腔から内息を漏らすだけでこの音を発音できると述べている。しかし何という仮名文字で表していいものであろうかと考えこむ。だから「ン」と称するだけで改めて項目名は立てていない。
この時代の言語学の状況は知らないが、西洋流の音声の考え方に近いところをいっていたようだ。それでいてあえて西洋言語学には近づかなかったのかもしれない。
言葉の意味(字義)には関係ないこととして、学界を揶揄した蕪村の句など紹介してあったのが愉快だった。
あらむつかしの仮名遣いやな字義に害あらずんばアゝままゝよ、と詞書して、梅咲ぬどれがむめやらうめじややら (几菫編 蕪村句集巻之上)(「本具音」)
他の各編について触れることはしないが、「音幻論」は決して人気のある著作ではないかもしれない。物事を大きく把握しながらも几帳面で細事を疎かにしないこの人物による労作は言葉に関心ある者にとっては、なかなか捨てがたいところがあると思う。昭和十九年というただならぬ時期に何という閑文字をものしたものかという(好意の)評言もあるが戦争嫌いの露伴なればこそであろう。
(2015/3)