2017年4月15日土曜日

読書随想:堀田善衞「夜の森」

1918年、日本はロシア帝国を助けるためにシベリアに兵を出した。いや、ロシアをではない、チェコスロバキア人を助けるためにだ。で、出兵した日本軍の兵隊たちは何をしたかと言えば、人殺しをしたのだった。凍てつく寒さの山野に露営してまで人殺しをしに来た。こんなことを内地の人たちは知っていただろうか。兵隊だつた人が自分たちのしたことを帰国して伝えなければ想像もできなかったろう。その内地では米騒動が起きた。時の政府は混乱した。内憂外患でありながら、明治の栄光を忘れられない。米騒動のほうにも鎮圧に軍隊を出した。この作品は二つの大事件をからませている。1918年は著者堀田さんの生まれた年であり、米騒動は堀田さんの故郷、富山での俗にいう「越中女房一揆」に始まっている。

大正7(1918)年から4年間、シベリア勤務の兵士がつづった日録のかたちをとった作品。主人公は巣山忠三、農家の三男、小学校卒業後、小倉に出て本屋と呉服屋で奉公したのち召集される。いわゆるシベリア出兵の実態が描かれる。巣山二等兵の地のはなし言葉にちかい口調で書かれているので読みやすく親しみやすいが、内容は苛烈である。内地の人間には想像もできない冬のシベリアを舞台に繰り広げられる軍隊の様子は、苛酷であるほどシベリア出兵という事件のあやふやな実態が浮かび上がる。司馬遼太郎は「実に恥ずかしい、いかがわしいこと」という言葉をのこした(『「昭和」という国家』)。

筆者はシベリア出兵の何たるかをまったく知らぬままで読んだ。だからその実相は主人公の言うままに教わりながら読み進んだが、当然のことに過激派とかパルチザンとかチェック軍とか独墺軍俘虜とか聯合与國とかの関係がよくわからないままに読み終わった。読後の感想はこの兵隊たちは一体何をしにあんな遠いところに送られて苦労させられたのだろうという疑問だけであった。おそらくこれで著者堀田善衞氏の目的は達せられているのだろうと思った。7万3千人もが出征し、5千人もが戦死して撤退したとウイキペディアに書いてある。ばかばかしい話である。

内地を出発したのが8月10日だそうであるが、兵隊の服装は木綿の夏服である。9月5日ごろの記事に昼間は真夏のごとく暑くて汗がだらだら流れるというほどなのに、夕方雨が降り、日が暮れると気温はどんどん下がって、夜中には外套を着ても歯の根が合わないくらい寒いとあった。米英仏など聯合軍は羊毛ラシャなどのあたたかいのを着ているという。日本軍の食糧は米だ。米俵で日本から輸送される。日清・日露戦争のころと変わらない。挽き割り麦を混ぜて炊く。水がないと炊飯できないから進出した最前線で炊けるとは限らない。極寒期には飯が凍ってしまう。寒さのことをいえば、10月1日には雪が降り霜柱が立った。米を洗って飯盒の蓋をしようとしたら蓋が地面に凍り付いている。手ぬぐいは棒になり、小便も凍る。この時零下10度。2月に冷凍試験ということがあった。冬季研究委員会というところに差し出す記録を書く。午前零時半に炊き上がったのを外に出しておく。午前3時20分、箸も立たぬほど、カチンカチンに凍り、水筒の水は、5時間で石のようになり、水筒自体がぷくっとふくれあがった。時に零下26度。記事の中には零下40数度までの記録もあった。靴に雪が入ったり、負傷して歩けなくなると凍傷になる。凍傷が進むと筋肉が壊死する。切断!手足のない人、鼻もげの人。

組織だって双方対峙する戦闘場面は出てこない。のちの赤軍は当時まだ正規に編成されてはいなかったようだ。革命軍が過激派だ。ボルシェビキと振り仮名がしてある。独墺俘虜軍は烏合の衆だし、パルチザンは労農派つまり労働者農民軍でこれもまとまりはない。要するに相手はみなゲリラだ。くぼ地とか山あいの谷間で高みから撃たれて死傷者を出すのが日本軍の有り体だった。西部劇でインディアンがとる戦法だ。戦訓を生かさないので悲劇が繰り返される。あるいは森の中、姿の見えない敵と撃ち合う。この森は結構怖いところのようだ。撃たれながらも突っ込んでいって銃剣で突き殺す。銃剣を突き出しての突貫が実に多い。戦国時代さながらの光景が繰り広げられる。部隊が全滅した場所に行き着き屍体を始末する。服装全部はぎとられて全員シャツ姿で凍っている。積み上げて燃やす。最後は骨を集めて兵営まで運び、人数分に分ける。靖国行の切符と呼ばれていた認識票も奪われているので誰が誰やらもうわからない。
プスーリ、もう一遍でも二遍でもあれをやってみたい。あれをやってるときな何も考えなくて済む。プスーリ、銃剣で人を突き刺して殺すときの感触をこのように書いてある。田舎から出てきて呉服屋に奉公していた若者がシベリアで覚えた味だ。パルチザンを殺す。パルチザンは村に逃げ込むと百姓と見分けがつかなくなる。とにかく捕まえて、少尉や曹長たちが待っているところへ連れてゆく。土下座して拝むやつを一刀のもとに首を斬る。少尉殿がいちばん手際がよかった。ただひとうちで首がころりと前に落ち、首の台から吹き出す太い血が一間くらいもほとばしった。宿舎に戻った少尉殿が言う。あー面白かった。日露戦争でもこうはいかなかったろうな。はじめのうちは歓待してくれた百姓たちも次第に近寄らなくなってきた。
ご機嫌取りに救恤品を持っていく。食料品や生活用品など。殺しておいてお土産を持ってゆくとはおかしな具合だ。それもアメリカ軍の救恤品のほうが歓迎される。くやしくても仕方がない。「夜の森」について次のような述懐がある。
よいことだか悪いことだか、内外に軍隊が出て征伐すべきことかどうか、にわかにはわからぬが、自分は心の変化を感じている。自分は、あのドボスコーイの激戦のとき、一時疎林のなかに伏していた際のことを思い出す。樹林に弾丸や砲弾の破片があたるときは、ビシッ、バスッという、じつに厭な音をたてるものである。あのとき、なんだかこのシベリア全体が、暗い気味の悪い夜の森のようなもので、そこには虎や狼のようなけだものがいっぱいうごめきひしめいていて、ときどきピカッと異様な眼玉を閃かせる、我々は生きて再びこの森を出られぬ、それからまた、我々は本当のところ誰を相手にしていかなる名目で戦っているのかがはっきりしないような、不気味な気がする森のなかにいる、とまあそんな気がしたのだ。ひょっとすると、我々もまた虎であるかもしれない。あの紙切れをよこした痩せた日本(?)青年も、別な虎の眼のひとつかもしれない。気持ちの悪いことだが、青年はどうやら我々を見えつかくれつこの兵舎までつけて来ていたらしい。本来は憲兵隊に告ぐべきなのだろうが、自分等百姓出のものは面倒なことは好まぬ。気味の悪いことだが、しかし、いまこのハバロフスクから見ると、シベリアだけでなく、内地も、飢えた虎や狼のいっぱいにつまった不気味な夜の森みたいな気がし出す。ピシッ、パシッと弾丸が厭な音をたてる森だ。我々出征軍は、こんな森のなかに踏み込んでどんな役割をしているのか。
主人公の巣山は勉強好きだ。新聞でも何でも文字が書いてある紙片は拾ってきて暇のある時に読む習慣がある。反戦ビラも拾ってきた。誰に反対して戦っているのか考えたことがあるか。日本を護るためというが、ロシアの労働者や農民が革命以後日本に損害を与えたことがあるか。君たちは郷里に帰ったときどちらの側に立つつもりか……。日本の新聞には自分たちの出征後、米騒動が起きていると報じている。いまや全国に広まって、軍隊が抑圧していると。米は1升50銭にもなっているとか、父母は飯米まで売ってしまったのでないか。次に値下がりしたら借金することになるぞ。妹が銘酒屋にやられるようなことにならなければいいが……。
いったい何をしているのか、と聞かれれば気が変になる。プスーリさえやっていれば気が楽でいい。

筆者は、ちょっと調べてみて、昔、黒島伝治という作家がシベリア出兵を材料に反戦文学をものしていることを知った。青空文庫に入っている二遍を読んでみた。昭和3年だから伏字のXXつきである。たとえば『渦巻ける烏の群』は一個中隊雪の中に全滅の話である。昭和3年にはまだこんな話が書けたのだとちょっと驚いた。これがすこしのちになると特高の餌食になっただろう。

「10月31日 目出度い天長節」と出ている。大正天皇の誕生日は8月31日であるのにこれはなぜか。調べたところ天皇がご病弱のため暑さ厳しい盛夏の式典を避けるために、気候の良い時期に天長節祝日として10月31日を設定したのだそうだ。おそらく世上一般に10月31日のほうを天長節と呼びならわしたものと考えられる。
今回この物語を読んだことでいかに大正時代のことに疎いかを思い知らされた感じがする。わが親たちの少年時代、そんなに遠い昔ではないのに知らなすぎる。反省大なり。
読んだ本:『堀田善衛全集 2』筑摩書房(1993年)。「夜の森」は1954年1月号、12月号、55年2月号の3回『群像』に分載、55年3月講談社から刊行された。
題名はウイリアム・ブレークの詩『虎』からとられたとあった。
(2017/4)