宮沢賢治の「土神ときつね」の話は童話に分類されているが、どうしてどうして大変な知識を下敷きにした作品である。自然を中心に考える生き方と物質中心に科学的に考える生き方の違いの象徴でもある。それはとりもなおさず古来よりの日本と近代日本の対照でもある。原文だけを見ていれば、綺麗な女の樺の木をめぐって土神のいびつな心が狐を殺してしまう暗い物語であるが、ひとたびヒントが与えられれば私たちの想像力が深いところまで届いてしまうなかなか面白い話だと感じた。西洋においてのキリスト教によって抹殺されてしまった精霊たちの物語を連想させられる。
小森陽一氏は『最新宮沢賢治講義』(朝日選書、1996年、朝日新聞社)に8篇の作品を取り上げて、作品に残された賢治の言葉から何を読み取るかを課題として講義してくれる。ここには民俗学的な興味をもそそる「土神ときつね」を選んでみた。原文は青空文庫で読めるので、筋を追うことはしないでおく。
「一本木の野原の、北のはずれに、少し小高く盛り上がった所がありました」で始まるこの物語が展開される場所は、古来の砂鉄から鉄を精製した跡地であったようだ。土神が読者の前に初めてあらわれる姿は、「溶けた銅の汁をからだ中に被ったやうに朝日をいっぱいに浴びて」歩いてくる。彼の住む場所は「小さな競馬場くらいある」ところで「冷たい湿地」の「水がじめじめしてその表面にはあちこち赤い鉄の渋が沸きあがり見るからどろどろで気味も悪いのでした」とある。
土神がこの地域で砂鉄から鉄を精製する人々が祀っていた神だとすれば、その人々は製鉄のために大量の樹木を伐採し、この辺り一帯の木々を皆殺しにしていったことになる。もしそうであるなら、樺の木にとって、土神は自分たち樹木の仲間をこの地域で絶滅させた人間たちの神なのだ。樺の木が製鉄法によって絶滅に追い込まれた樹木たちの最後の生き残りであるとすれば、土神は製鉄をしていた人間たちによって、かつては祀られていたにもかかわらず、その人達がこの土地を去った後、祠に置き去りにされてしまった存在であることがわかる。土神はいまや貧民なみでしかない。
樺の木はどちらかと云へば狐の方がすきでした。なぜなら土神の方は神といふ名こそついてはゐましたがごく乱暴で髪もぼろぼろの木綿糸の束のやう眼(め)も赤くきものだってまるでわかめに似、いつもはだしで爪(つめ)も黒く長いのでしたこれは差別の表現であって近代の視線によるもの、すなわち「日清戦争前後をさかいにして国民的な規模において成立する、「衛生学」的言説によって、土神は近代日本からの逸脱者として徴(しるし)づけられている」のである。
講義では陰陽五行という中国古来の自然哲理を教わる。日本には鎌倉時代に陰陽道として入ってきて、いつしか民間の俗信となり、現在では干支とともに旧い暦や縁談の相性などに残っている。
陰陽五行説による自然認識によれば、万物の組成の元素は木・火・土・金・水の五つの元気である。その体系は木から火が生じ、火から土が、土から金が、金から水が、水から木がそれぞれ生じることを相生(そうしょう)と考える。他方で、木が土に、土は水に、水は火に、火は金に、金は木に剋(か)つことを相剋(そうこく)ととらえ、相生のものが出会えば和合と幸福が与えられ、相剋のものが出会えば不和と災難が起こるという原理によって成立していると解説される。
砂鉄から鉄を得る工程はまさに相生の関係を見事に利用して、「土から掘り出した金としての砂鉄を、水で洗いながら選別し、木から得た火によって製鉄して鋳物などの鉄製品を生産する技術」である。一方で樺の木と土神の出会いは木と土の相剋の関係であり、うまくいくはずはなく、本来なら土神に剋てるはずの樺の木が、土神にある怯えを感じざるをえないのは、土神を祀った人間たちが相生の関係を利用して製鉄を営むことで、樹木を殺し尽くしたからにほかならない。物語の中には樺の木が土神の言動に我知らず青ざめたり打ち震えたりする場面が再三出てくるが、現在を生きる樺の木にはその理由がわからないなりに恐ろしい。
陰陽道では土神は土公神(どくうしん)と呼ばれる遊行神の一つである。人間の住まいに深く関係する場所を居場所として季節によって移動するとされる。春はかまど、夏は門、秋は井戸、冬は庭であり、それぞれの季節にはその場所の工事などを避ける。たたりを受けないように祭祀がおこなわれる。物語に登場する土神は製鉄を営む人々がいなくなったために居場所が失われた存在である。それだけでなく、丸太造りの祠があてがわれしまった。人間どもは供物一つ持ってこないと怒り、相剋関係にある木で囲い込まれる始末に、神であるはずが存在理由を失ってしまっている。小森氏はこれを「自己同一性」が奪われしまったと表現し、狐のような弱い存在の話す嘘話を真に受けて「嫉妬」の激情に敗けてしまう哀れな存在と解説する。
樺の木が土神の心をなだめようとして「あなた方のお祭り」が近づいていることを話題にした時、土神はそれが「5月3日」だと正確に思い出す。
土神はしばらく考へてゐましたが俄(には)かに又声を暴(あら)らげました。「しかしながら人間どもは不届だ。近頃(ちかごろ)はわしの祭にも供物一つ持って来ん、おのれ、今度わしの領分に最初に足を入れたものはきっと泥の底に引き擦り込んでやらう。」土神はまたきりきり歯噛(はが)みしました。考へれば考へるほど何もかもしゃくにさはって来るらしいのでした。そしてたうとうこらへ切れなくなって、吠ほえるやうにうなって荒々しく自分の谷地(やち)に帰って行ったのでした。土神がむしゃくしゃして頭をかきむしりながら高みの方を見ていると、三ッ森山の方へ稼ぎに行く木樵がやってきた。木樵は気遣わしそうに祠の方を窺いながら歩いている。それを見ると土神は喜んで顔にぱっと赤みがさした。土神によって木樵は知らず知らずのうちに泥の中にはまり込んだ挙句、水の中に倒れこんでしまう。土神はニヤッとして木樵を草地に放り出すと木樵はそのまま気を失ってしまった。やがて遠くの方で騎兵の演習らしい鉄砲の音がパチパチと聞こえ、空から青光りが流れてきて、それを呑んだ木樵は正気にもどって慌てて逃げてゆく。土神は大声で笑う。その声は空の途中で樺の木の方に落ちてくる。樺の木ははっと葉の色を変え、見えないくらいふるえた。
木樵は稼ぎの道具に斧のような鉄製品を使う。土神を祀った人達が作った鉄で暮らしを立てている木樵のような人間こそ土神を忘れてはいけないのだ。だから祠の方を気遣わしそうに見ながら通り過ぎようとする木樵を見て、土神はまだ自然信仰を失わない人間を見出して喜んだのだ。ここで土神が木樵に祟れば人間どもはまた土神を祀るだろう。祟る機会が来たことに喜んだ土神は木樵をいじめてようやく気が静まった。
遠くに聞こえた「騎兵の演習」の鉄砲の音で木樵は正気づいた。鉄砲は近代的な製鉄法の産物であり、明治このかたの「富国強兵」のシンボルでもある。土神は旧時代の俗信の産物、「文明開化」に捨てられてしまった存在だ。
ここには述べる余裕はないが樺の木をめぐって土神の心を混乱させる狐は、仕立ておろしの紺の背広に赤革の靴を履いてやってきて、樺の木に宇宙や天文など西洋の科学知識をひけらかす「近代」の象徴である。土神と狐の物語は新旧の時代対立とみえる。ところが狐は稲荷信仰にみる通り古来日本の神と人間をつなぐ存在でもあった。狐が使いをする神は五穀豊穣をつかさどる日本の神なのだが、中国わたりの陰陽道の神である土神と出会ってしまう。だから土神と狐の関係は異国の宗教の対立でもある。しかし、西洋から近代自然科学がはいってきて稲の生育などの原理が明らかにされてしまえば、稲荷信仰は忘れ去られるようになる。狐も近代によって人間社会から切り離される存在だった。
樺の木という名前の木はないそうである。科目または嘱目のカバノキがあるだけという。
幹はてかてか黒く光り、枝は美しく伸びて、五月には白い花を雲のやうにつけ、秋は黄金や紅やいろいろの葉を降らせました。カバノキ科の樹木ではこういうことはないそうだ。小森氏は詩人谷川雁氏の説をひいている。「樺とはヤマザクラその他山間自生の各種桜を指す東北方言である。」しかし、そうであっても東北の人々は「土神ときつね」に登場する樺の木を決してヤマザクラと呼ばないという。それは中国から移入した律令政権力によって東北を侵略したヤマト政権への言語的抵抗の証しだと小森氏は説明する。
「樺の木」は白樺などの「樺」の漢字に惑わされて混同してはいけないのであり、また、ヤマトコトバのヤマザクラでもない、大和政権以前からの古い呼び名だということかと思う。したがって中国の自然観による土神と対立するし、西洋の科学的認識とも対立する、つまりは狐とも幸せな関係になれないことになる。
この物語では「樺の木」にかかわる命名の歴史が忘れられてしまって意識されていない。「樺の木」は自らの美しさによって、土神と狐をひきつけてしまい、千数百年を隔てた自然観と自然観、異なる文明と文明との戦いをひきおこしてしまう。
激情にかられて狐を殺してしまった土神が、それまで散々聞かされてやっかんでいた狐の住まいを覗いてみると、見事なまでに何もないただの穴でしかないので大声で泣き出すところで物語は終わる。
狐の死骸の上に降り注ぐ土神の涙、これは何か。侵略者である人間によって傷つき死んでいくのは自然の側にいる者たちである。「そこに土神の最後の涙の質を見いだしたいと思う」と小森氏は結んでいる。
ここにあげた事項の他にも狐の語る天文とキリスト教思想の考え方、嫉妬の心理構造、近代日本と帝国主義などなど、すべてが樺の木と土神ときつねの関係性に結びつく。まことに多面放射体ともいわれる宮沢賢治の人間を彷彿させる物語ではあるが、事柄を散らかしたままでおくか、一点に集中するべく考えるか、読者はどうすればよいのだろうか。何度読み返しても面白いのだが、さてその先は・・・。(2016/1)