2024年10月23日水曜日

音読の効果

 ふと思いついて音読をしてみた。保田与重郎「長谷寺」の初めの部分。黙読したときに比べて、読んだすぐあとに文の意味が明確になった気がした。同じ語彙でも黙読した時とは把握が違う気がする。

読み続けると口にやたら唾がたまってきて口の動きの自由が奪われそうになる。これは口の筋肉が弱っているからだと自己診断する。

音読すると自分の声を自分で聞くことになって、発音された言葉(語彙)が確認できる。この経路を繰り返して使うことによって、他人の発声による言葉の把握がしやすくなるという、つまり聞き返しが少なくなる効用が認められる。これは難聴者への朗報だ。

難聴者でも自分の声は聞こえる。伝音性難聴なら耳骨に響くことで聞こえる。感音性難聴では内耳が故障しているから駄目だ。私は後者だ。それでも聞いてみたい。補聴器を通じてでも聞けば、脳がそれなりに響きを聞き取るのではないか。ならば訓練になるだろう。はかない希望である。

保田与重郎の文章では一般の人に勧める際にやや遠慮がある、つまり広く知られた物書きではない。先生方の勧めに従うのがよかろうと、山口謡司氏の本を選んでみた。

推薦文がある。本文に先立って良いことづくめが並んでいる。音読すると、「1、気持ちが落ち着きます。2、やる気が出てきます。3、ストレスが解消し、抵抗力がアップします。4、脳が活性化されます。5、誤嚥性肺炎の予防に役立ちます。」と並んでいる。私が期待する、耳が鍛えられますとは書いてないが私は期待する。溺れる者の藁みたいなものかも知れないが、まぁいいさ。

冒頭に書いたように音読は黙読より文が深く読める気がする。面白い発見もある。

斎藤茂吉さんの「曼殊沙華」(昭和10年)という随筆。「曼殊沙華は、紅い花が群生して、列をなして咲くことが多いので特に具合の好いものである」という書き出しだ。

これを音読した直後は、いったい何が具合が好いのか。具合が好いってどういうことだろう。たかが花の咲き方に具合の良しあしがあるのだろうか。具合って何だ。はじめは、茂吉さんは歌詠みのくせにおかしなことを書くなぁ、などと思う。繰り返し読み直しては考えるうちに、茂吉さんが気持ちよく感じるうえで都合がよいのだという風に解釈した。都合も具合も漢語ではないようだ。何とはなしに「ことばのあらわし」が話し手の気持ちをあらわしているように感じられる語である。まことに歌詠みらしい言い回しだ、などと勝手に解釈した。

音読は老化防止とか認知症に効くとかだけでなく、ことばを知る楽しみも増えると言えそうだ。負け惜しみの弁だが。

参照した本:山口謡司『おとなのための 1分音読』自由国民社2019年

(2024/10)

2024年10月22日火曜日

中昔のこと、あるいは日本語の楽しみ

  昔の文芸評論家の保田與重郎さんは故郷の大和を愛してやまなかった。Wikipediaには、1910年(明治43年)4月15日 - 1981年(昭和56年)10月4日と、その生きた時代が記されている。文芸評論の分野では日本浪漫派(にほんろうまんは)の中心人物に挙げられて、戦時下の日本では毀誉褒貶がかまびすしかった人だ。私は単純に、大和に生まれて生涯その土地の歴史風土を愛し、日本を愛したその人となりに好意を抱いている。私も大和が好きだからに他ならない。
「長谷寺」という文章がある。昭和39年に書かれた。いま私はその文章を保田與重郎文庫17 新学社 2001年刊によっている。旧漢字旧仮名遣いの文だ。
 読み始めてまもなく、「中昔」という言葉に出会った。このところ健康維持の一環としての音読に関心を向けている私は、「中昔」を何と読むか判定できなければ先に読み進む気になれない。
 長谷を信心してきた中昔以後の人の心は、今日の山村の老婆の思ひと、ねがひごとの期待ではかはりなかった。(8ページ)

広辞苑第5版に出ていた。「中昔 なかむかし  上代と近世の中間。あまり古くない昔。中古。近世。」とあって、お伽草紙『鉢かづき』の「~のことにやありけん」と出典例を挙げてある。    

この説明で、中昔の読みと意味が分かったけれど、今度は「鉢かづき」が何のことやら、気持ちが落ち着かない。調べると、「かづき」は「(頭に)かぶる」の古い言い方「かづく」の活用形だそうだ。
享保年間(1716~36)に大坂(=大阪)の書肆が出版した「お伽草紙」23篇のうちの一編「鉢かづき」の中に使われているということだ。
で、そんなに古くない昔、大阪の寝屋川という在所での、鉢をかぶった女性にかかる物語で、当時の観音信仰にまつわる話でもあるらしいが、ここでは詳述しない。

更に読み進むと、「近昔」というのが出ている。こちらは広辞苑にもないが、さきに中昔があったからには、読み方はチカムカシでよいだろうし、意味もそのまま聞いてわかる。
このあたりまで読むと、保田氏の学問は本居宣長の学風に沿っていることがわかってくる。
本稿は学問の筋ではなく言葉を考えることに目的があるので、話題をハセと呼ばれる地名の漢字表記が「初瀬」であったり「長谷」であったりする理由をさぐることに振り向けよう。
『更級日記』に、作者藤原孝標女(ふじわらのたかすえのむすめ)が長谷寺に詣でるにあたって初瀬の精進(はつせのさうぜ)をはじめたとの記述がある。参詣するためにあらかじめ身を清めるために日常生活を慎む、精進潔斎に努めることをさしたものであろう。
初瀬は、現在の奈良県桜井市の地名である。呼び名の古くはハツセであったが現在ではハセである。また、古くは地名のハツセにかかる枕詞が「こもりく」であった。山に囲まれたところの意であるが、ハツセが枕詞を持つことから古い呼び名であることがわかる。
日本のことばの本来が音声であって文字を持たなかったことに常時留意する心掛けが大切である。知らない言葉を聞いたときに、どんな漢字を書くのですかと訊ねるのは、その場の話柄によって考慮すべきことであると思う。
音声言語の日本に漢字が伝えられるとともに、地名をも漢字で表記する要請にもせまられたことで漢字の選択に工夫が重ねられた。しかし表記するモトが一元的に確定されないままに推移したから複数の表記にひとつの読みが与えられることにもなった。すなわち初瀬、泊瀬、長谷が同じ読みハセを持つ結果になった
峡谷の峡はハザマを意味し、ハザマの動詞はハサム、その語幹がハセであるとか、国語学者は解説する。長谷川は長い峡谷を流れる川でハセガワである。ハセガワが先か長谷川がさきか、問題にする必要はない。日常の話し言葉に漢字は必要がなかったのだ。今に残る言い方を表す音声文字に優劣前後はあまり問題ではない。日本のことばはおおらかなのである
長谷寺についても念を入れておこう。鎌倉の江ノ島電鉄の長谷駅で降りると大仏と長谷寺に行ける。大仏があるのは高徳院で長谷寺とは別のお寺である。
鎌倉の長谷寺は736(天平8)年に、686年創建の奈良の長谷寺にならって建てられた、どちらも十一面観音を本尊とし、それが同じ一本のクスノキから造られたという説がある。
さて、さきに私は音読に関心があると書いた。ハセのことは措いて音読のことをすこし書いておこう。高齢者に音読は効き目があるということに注目した。
もともと読書が脳に効くことはよく知られていて、脳科学者の川島隆太氏などがずいぶん以前から読書は脳の前頭前野を刺激すると研究成果を広く伝えている。
私が最近注目したのは音読が耳にも効くという一事である。音読をすれば、おのが耳でおのが発する音を聞くことができる。耳栓をして音読すれがよくわかると説く向きもある。要は骨伝導で聞こえるわけだ。伝音性難聴であれば、骨伝導で矯正の効果はあるかもしれない。けれども、私の難聴は感音性なのでなおらないそうだ。それでも自分の声をわが耳で聞くことは、発する言葉を聞き取ることなので、難聴者が声が聞こえても言葉が聞き分けられないという聞き分け障害に対して改善する効果はあるかもしれないと思う。つまり聞き取り訓練である。音声を聞いて理解するのは耳と脳との共同作業である。相手の話す言葉を逐一耳が聞き取って理解するのではなくて、脳が既知のことばを思い出して耳に協力しているのだそうだ。発声を繰り返すことで聞き取りとか聞き分けの訓練ができるかもしれないことにかすかな望みをもったというわけである。
音読は黙読より丁寧に文を読むことになるから理解に役立つのは確かである。
というわけで、一般の音読練習用の名作などでなく自分が読みたい文の音読をしてゆくつもりでいる。それが保田与重郎さんの作品を取り上げたわけである。
参照した本:保田与重郎文庫17 新学社2018
(2924/10)