今は昔、自然がいっぱいあったころには兎狩り は珍しいことではなかった。左はのちの習志野練兵場で近衛兵の訓練として兎や鹿を追いかけている図だ。「大調練天覧之図」(明治7年)。正面高いところに天皇の席がある。
明治6年、皇城と称した旧江戸城が焼失したため、赤坂の旧紀州徳川家屋敷を天皇の住まいとした。赤坂仮皇居という。明治21年まで。
その仮皇居御苑では近衛兵に兎を素手で捕まえさせる催しが明治13年ごろまで行われていたが、やがて野外での狩りにとってかわり、行幸されるようになった。明治初年の6大巡幸によって全国の国見を終えられたあと、天皇は13年の甲斐路巡幸の途次に目にされた武蔵野の風物に殊の外惹かれたご様子で、この方面に、山猟あるいは、鮎漁にと四度行幸された。現在の京王電車沿線の聖蹟桜ヶ丘近辺、連光寺村が中心であった。
私は聖蹟の語が何を意味するか知らないままに過ごしてきたが、迂闊であった。足の達者なうちに旧多摩聖蹟記念館を見ておけばよかったとは思うが、そこで何が見られるかを知らなければやはり足が向かなかっただろう。いまだからこそインターネットで情報が得られるから残念な思いもする。
偶然、保田与重郎「天杖記」を読んだがために、その地に郷愁に似た気持ちを持つようになった。四度にわたる御狩り行幸が四曲屏風絵でも見るような気分にさせられたからだ。現在のそのあたりの風景からは物語の切れっ端も見当たらないであろう。郷愁あるのみである。
天皇が狩りをするといっても、実はご自分が走り回るわけではない。天皇は高みに床几を据えて、皆の衆が兎を追いかけ、捕まえ、走ったり転んだりするのをご覧になるのだ。天覧である。一日の狩りを終えて宿舎での歓談も楽しそうである。明治天皇は酒が大層お好きであった。著者保田は大仰な敬語を用いて記述するが、「夜の大供御(オオミケ)にその猪お料理を聞(キコ)し召しつつ、豊御酒(トヨミキ)に大御頬も赤丹穂(アカニノホ)に遊ばす頃、山口等の語るままに叡感一入におわします」などの表現がある。
さて、狩りの行事は、狩場候補地の選定、下見、天皇への報告、実行指示、行動計画策定、現地に連絡などの手順が求められる。現在からみて、行政区画は高井戸以西は神奈川県であったが自然のありようは変わりようがない。赤坂と現地の距離の隔たりが障害であったのは道路よりも通信手段であり、人間による伝達のほかなかった。皇居で決まったことが最速でも翌未明に采配役の名主に伝えられ、即日実施といった具合だった。それでも狩場に必要な人数の動員、配置、行在所(宿泊・田中家)、御小休止所(富澤家)の準備などすべてに抜かりはなかった。現地にしっかりした人的なつながりがないとできない事業だ。連光寺の場合の冨澤家と当主政恕(まさひろ)政賢父子は誠に適任であったようだ。文中に紹介されている当主の長歌と短歌も奥ゆかしい。江戸時代を通じて我が国の各地農村にはこういう人的資源が豊かであったらしいことは、有名な渋沢家ほかの例にも多い。
追われた兎が山岡書記官長の胸にとび込んだ時、そっと抱き上げて天皇にご覧に入れたところ、その毛並みを愛でられて、皇居に持ち帰られたとの逸話も残された。このように、捕らえられた兎は殺すのでなく、箱に入れて運ばれて皇居の庭に放されたらしい。
「天杖記」には先発隊として宮様なども入る一、二の別動隊が組まれ、兎狩りの実施に先立つ日に猪を狩っている様子も描かれる。仕留めた猪は猟師の慣習通りに現場で鬨をあげてから、捌いて肝を煮て酒を酌み交わすなどしている。
あるとき宴果てて後、階上の寝所で山岡書記官長相手に座り相撲を遊ばされたとの記事がある。座り相撲とは、私は明治生まれの父親に教わったことがあるが、腕組みをして胡坐をかいて座った二人が対峙して、互いに脚で相手の足組をこじ起こして転ばす競技だ。夜更けの時ならぬ物音に、階下の住人たちはおののいたとある。ご幼少の頃より、やんちゃな性格でもあった。
夏の鮎漁もそれなりに楽しまれたようであるが、明治帝は川魚を殊のほか好まれたそうで、琵琶湖のヒガイには漢字「鰉」が造られた。またアユ料理では女官相手に、味わった鮎の産地を当てるなどして愉しまれた。これら逸話が「天杖記」に紹介されている。
「天杖記」は保田与重郎が古くからの友人の早川須佐雄氏に著述をすすめられたのを契機としてものされた作品である。また同じく「天皇の御杖」(児玉四郎作、昭和5年)という著述を教えられたのも早川氏であったが、行在所として使われた府中の田中三四郎旧宅を訪れた時に、図らずもそこで管理人を務めていた著者児玉氏に遭遇して御杖に関わる同氏の思いを聴取する幸運を得たのだという。
著者保田氏が「天杖記」の読者に期待する想いが述べられている箇所がある。すなわち、天皇のなさる所作に下賤の思慮なり解釈を試みるべきではない。神ながらの御教えには何の下心もない、大様でめでたいだけである。神ながらには、教えや諭しの寓意はないのである。神ながらの教えの素直な受け取り方が、今日では一番大切なことになった。それを物語るのが文学であり、また文学の生命である。著者の志す文学文章の任務は、畏きスメラミカド(皇朝)の神ながら生々たる発展の事実を、生命に喚起するところにあるが、この天杖記を読もうとする人には、始めにそれを考えてもらいたい。神ながらの自然(オノヅカラ)は、今日の人智の達した程度の道徳律で、これを換言してはならぬのである。 古い平安朝の文学では、ミカド(天皇)のめでたさを、その頃の道徳律に換言した聖徳という形にしるし奉ることなく、神ながらのみやびの、めでたく尊いありのままを、ただ美しく述べ奉った。ただ美しく楽しく写しまいらす、これが皇朝のものがたりというものの根柢であって、文章のみやびの根本であった。わが古典は、古事記に於ても祝詞にあっても、いづれも神の物語を、ただそのままに写したのである。わけても古代の祝詞のあるものは、自然界の現象のありのままをうつし、しかもそれによって、神々のお振舞と霊威の威力を、眼前にみなぎらして神いますさまを生きいきと描き出している。ここに言霊の本源があり、わが国のみやびの根柢があるということは、本居宣長も申されたところであった。と、長い引用になったが、ここで保田はみずからの文学の基本が宣長の国学に基づいていることを明らかにしている。
「天杖記」は兎狩りの山道で天皇がふと見かけた木を切りとらせて杖にしたのを山岡書記官長に下賜した。その杖がやがて越後の旧家のお堂の御神体になる物語だ。平和な狩りの物語と合わせて「天杖記」と題したのであった。
この作品は戦局ただならぬころ、作者が大患いであったうえ憲兵に監視される生活の下で懲罰的召集を目前にしながらという時期に書かれている。内容が盛り込み気味であるのも止む無しかとも思われる。良き時代の狩りの有様は貴重な物語である。
雪ふれば駒にくらおき野に山に遊びし昔おもひいでつゝ 明治天皇御製 明治45年
山かげをたちのぼりゆくゆふけぶりわが日の本のくらしなりけり 保田與十郎
参照した本『鳥見のひかり/天杖記』(保田與十郎文庫 14 新学社 2013 第二刷)(2025/6)