ふと思いついて音読をしてみた。保田与重郎「長谷寺」の初めの部分。黙読したときに比べて、読んだすぐあとに文の意味が明確になった気がした。同じ語彙でも黙読した時とは把握が違う気がする。
読み続けると口にやたら唾がたまってきて口の動きの自由が奪われそうになる。これは口の筋肉が弱っているからだと自己診断する。
音読すると自分の声を自分で聞くことになって、発音された言葉(語彙)が確認できる。この経路を繰り返して使うことによって、他人の発声による言葉の把握がしやすくなるという、つまり聞き返しが少なくなる効用が認められる。これは難聴者への朗報だ。
難聴者でも自分の声は聞こえる。伝音性難聴なら耳骨に響くことで聞こえる。感音性難聴では内耳が故障しているから駄目だ。私は後者だ。それでも聞いてみたい。補聴器を通じてでも聞けば、脳がそれなりに響きを聞き取るのではないか。ならば訓練になるだろう。はかない希望である。
保田与重郎の文章では一般の人に勧める際にやや遠慮がある、つまり広く知られた物書きではない。先生方の勧めに従うのがよかろうと、山口謡司氏の本を選んでみた。
推薦文がある。本文に先立って良いことづくめが並んでいる。音読すると、「1、気持ちが落ち着きます。2、やる気が出てきます。3、ストレスが解消し、抵抗力がアップします。4、脳が活性化されます。5、誤嚥性肺炎の予防に役立ちます。」と並んでいる。私が期待する、耳が鍛えられますとは書いてないが私は期待する。溺れる者の藁みたいなものかも知れないが、まぁいいさ。
冒頭に書いたように音読は黙読より文が深く読める気がする。面白い発見もある。
斎藤茂吉さんの「曼殊沙華」(昭和10年)という随筆。「曼殊沙華は、紅い花が群生して、列をなして咲くことが多いので特に具合の好いものである」という書き出しだ。
これを音読した直後は、いったい何が具合が好いのか。具合が好いってどういうことだろう。たかが花の咲き方に具合の良しあしがあるのだろうか。具合って何だ。はじめは、茂吉さんは歌詠みのくせにおかしなことを書くなぁ、などと思う。繰り返し読み直しては考えるうちに、茂吉さんが気持ちよく感じるうえで都合がよいのだという風に解釈した。都合も具合も漢語ではないようだ。何とはなしに「ことばのあらわし」が話し手の気持ちをあらわしているように感じられる語である。まことに歌詠みらしい言い回しだ、などと勝手に解釈した。
音読は老化防止とか認知症に効くとかだけでなく、ことばを知る楽しみも増えると言えそうだ。負け惜しみの弁だが。
参照した本:山口謡司『おとなのための 1分音読』自由国民社2019年
(2024/10)